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  映像研究

植物のような事ではない物が植物のようになる時、壊れる時

 
・去年の後半の秋から冬に移りゆく時間を共に過ごした連続ドラマは『Q10』。登場人物は高校生がメインだけれども、内容は「社会に生きる人のための倫理の授業」というべきもので、毎週毎週繰り出される木皿泉の木皿メソッドを前に、ただ神妙な気持ちになるのみだった。そして今その『Q10』のDVDBOXが我が家にやってきた。友達から貸してもらった。そしてその友達は『すいか』を観たことがないとかわけのわからないことを言うので代わりに貸し付けてみた。郵送(強制的なニュアンス)した。それでちょうど半年を経て再び『Q10』を観ている。震災があって色々なことを考えたりして、それでもまた観ている。



・通して全9話を観て、そういえば木皿泉のドラマにはあんまり「植物」のようなものが出てこないと思う。「自然」のようなものにことさらに焦点を合わせるような場面は少ないし、何かを述べるときに「本来性」のようなものを根拠にすることもない。「性」の性らしさのようなものもさして重要とされない。ただし「食べること」はある。しかし、いずれにしてもむしろそのようなこととは別のところ、単純に言って「人工の物」にこそ焦点を合わせて、その物を見る解像度を極端に上げることによって、木皿泉のドラマは動き始めるのかもしれないなと思った。



・例えば、アイドルを応援する団扇が、ガチャガチャから偶然出てきたおもちゃが、美少女キャラクターのマスコットが、電気を送るための電線を繋ぐ鉄塔が、昭和のヒット曲が、ヘッドホンから流れる落語が、ルービックキューブが、クリスマスという制度が、あんぱんが、缶コーヒーが、何事かを話す。あるいは『すいか』だってそれはそうだ。知恵の輪が、新聞の占いのページが、大トロの刺身が、天津甘栗が、梱包用のプチプチが、ぬいぐるみの取れかけた目玉が、洗濯物を畳む便利グッズが、アイスの当たりの棒が、プチ整形が、紅白饅頭が、人と人とを繋げることを教える。共有スペースのためにエアコンを購入することで「貨幣と贈与」について考えたりもする。



・エアコンは「植物」ではないけれども、それがある状況の中で人と人とを繋げるとき、それは「空間の温度を適切に保つもの」とは違った何かの意味が生まれる。エアコンともに生きる。そういうことはみんなが知っていて、しかしみんなが特に意識はしていなくて、それがつまり「日常」ということなのか。どうなのか。しかし例えば、ある土地の元々の名前が奪われて「ニュータウン」みたいな暴力的な名称がつけられても、その「ニュータウン」で、人と人が新しく出会ったりすることが「日常」ならば、その「日常」が見えづらくなったときに、どこかで微かに鳴りつづけていた暴力の音に気がつくこともあるのか。どうなのか。かつて昭和のある時に幸福の象徴であることを誰もが疑わなかった「3種の神器としての家電」と「2011年における『エコナビ』的な家電」は何がどう違うのか。



・『すいか』の「壊れかけたワープロを直して使いつづける」というエピソードが好きだ。書類をつくるだけなら「コンピュータ」よりも「ワープロ」の方が良いという判断をする人がいる。それを使うことが自分の生活の中で自然であるような道具との関係がある。名前をつけて使う。適当に使う。適当に使うことがその道具への愛情であるかもしれない。普段は意識しなくても壊れたりすると猛烈に悲しい。そういえば橋本治という人も「ワープロ」を使うと雑誌のインタビューで言っていた。「道具は壊れないと思っている」というようなことを確か言っていた。壊れないならば使いつづければ良いと思う。壊れないならば買い替える必要はないと思う。それでもやっぱり「エコナビ」なのか。



・『Q10』はSFだから「2010年を/現代を振り返る」という視点を持つことができる。過ぎ去った時間は良い時のように思えたりもする。しかし多分木皿泉という作家は過去の時間を「良かった」とか「悪かった」とか裁くことをしない。「それは・かつて・あった」ことを、まるで現世を懐かしむような視点から切りとる。解像度は高い。「2010年には、まだ『奇跡』があるのだ」という言葉には、希望と・諦念がある。勇気づける意味と・警鐘を鳴らす意味とがある。「人間はゴミではない」という叫びで始まって、平和を祈る、その祈りのやり方をあくまでも「日常」から拾い出すこと。「日常」が捉えづらくなったときに、新しく考えることと、そのまま育っていくことがある。