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  映像研究

物と思い出についての問い

 
・かつて「物より思い出」というコピーがあったことを思い出す。そのコピーを聞いて、ああそうかもしれないなと思った。あるいは「記録より記憶」というフレーズがいつの頃からか聞かれるようになって、それを初めて聞いたときにはなるほどうまいことを言うものだなと思ったかもしれない。だけれども短くて何か本当のことを突いているような言葉に対して、その言葉はその言葉としてある意味を理解しながらも、その言葉が発せられたのとは別の状況で、また違ったことを考える。「物より思い出」と言いはじめたときに何かが変わったかもしれない。あるいはそれは「お金で買えない価値がある」というコピーの隣に書き記されていたのか。「物より思い出」の「物」とは何か。「商品」ということか。「物質的豊かさ」というような概念のことか。もしや「物質=マテリアル」を指しているのではないだろう。「物より思い出」と言ってしまったときに、何か戻れない線を跨いだのではないのか。「サーヴィス業への移行」「ポスト・フォーディズム的社会」と数十年にわたって言われる。一方で「物が多い」と言われる。「物に囲まれた暮らし」と言われる。そしてそれは乗り越えようとされる。本は電子書籍に置き換わる。「情報」は「データ」になる。「物」はすっかり相対化されたのか。「データ」と「通信」そして「映像」は「まだこれから十分な役割を果たすことができますよ」と言うだろう。すべての「物」は骨董的な価値ではかられるのか。すべての「手仕事」はキッチュというか、同じ国の中でもエキゾティックなアウラを持つかもしれない(民芸)。このような意識は、技術の革新とは別に、劇的に変化することはないし、つねに緩やかに変化し続けている。「物」ということを手当り次第に考えてみて、そこからどのような思考の方向を作り出せるか。


・そういうことを考えていたのはこの数ヶ月にわたって岩波の『思想』で連載されていた山本理顕という人の『個人と国家の〈間〉を設計せよ』という連載を楽しみに読んでいたからで、そこで展開されている議論においては「世界」と「社会」の対比のなかで「物」が大きな意味を持っていた。あるいはそこで刺激的だったのは、例えば「環境に負荷をかけないようにしましょう」というような、それ自体であれば誰も何も批判することができないような、あらゆる意味で「正しい」と思えるような言葉があるとして、それに対して別の切り口を作ろうとするような考え方を提示してみることだった。そしてそのことによって、これまで批判することが難しいと思われていた対象の輪郭を描き出すことができるようにも思える。「人間」は「世界」に対して「痕跡」を残すような「物」を作る、それこそが「労働」とは違った「仕事」である、というような議論には何かしらのヒントがあるのではないか。いくつかの異なった思考の道筋を結び合わせる地点を、そのようなテリトリーを構想するヒントがあるかもしれない。労働における「物質/非物質」という議論の隣に、芸術の「物質化/非物質化」ということを置いてみて、同時にその場合の「物」とは何かと考えてみたならば、「生活の中で物を作るとはどういうことか」というような考えや、「『物』を見る、ということと、文字を読んだり画像を見たりすることにはどのような違うところがあるのか」というような問いを立ててみることもできるかもしれない。そしてこういう問いは色々な人と、色々なレベルで共有できる話題であるようにも思う。「どのように住まうか」「何をして/どのように働くか」「何を食べるか」というような話題を人と話すことは本来ならば楽しいことであるはずだということを思い出す。


・物から遠く離れて。朝起きると洗濯をする。コーヒーを入れる。そういうことは儀式のようだけれども、手を使って何かを動かしたり状態を変化させたりしなければ、意識をはたらかせることができない。いや、できない、は言い過ぎで、しづらい。コーヒーに含まれるカフェインは意識を覚醒させるけれども、それは自分の場合は手を動かすこととともにある。粉の様子やお湯の注ぎ具合を見る。手の微妙な角度で出来上がりは変わるだろう。正解はない。「快」はある。例えばそういう運動が生活の中にどれだけあるだろう。


・「テレビを見るのをやめました」とダイアリーの自己紹介欄に書いてみて、書いたのは2007年のことで、そうしようと思ったのは2005年のことだった。当時はそれは自分の感じとしては必死にトレンドに競り勝とうとするような意識もあったのだと思うけれども、今となってはそれは決して「早い」ことでもなかったと思うし、そもそもそういった事柄を「早い/遅い」で考えることにもそれほど大きな意味を感じられない。もちろんそのときの自分にとっては切実な気持ちもあったのだとして。しかし目下のトレンドは「いかにしてソーシャル・ネットワーク・サーヴィスから脱退するか」ということになるのか。ちょうど10年前に「テレビジョンを見ることは単に時間を無駄にしているのではないか」と考えて、というか「『さして面白くないエンターテイメントに時間を吸い取られてしまっている』ことに気づかせないためにテレビジョンがあるのではないか」と考えて、もしも一人暮らしをするのならば、とにかくテレビを置くことをやめようと思ったのだった。いまそのときのテレビジョンに対する意識と同じような意識を、パーソナル・コンピュータに、インターネットの回線に、そしてソーシャル・ネットワーク・サーヴィスに、持つのかもしれない。しかし一方で自分の生活にとっては、ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスを定期的にチェックすることも、二週間に一度ブログを更新することも、業務上の「命令」である。接続せよ。記入せよ。言葉を記せ。そのような命令は業務を遂行する以上は(組織に所属する以上は)やむを得ないこととなっている。もちろんそれはそれとして、その屈辱を忘れないようにしつつ、適当に調子を合わせるだろう。しかしそのような「命令」と同じ、ひとつの時間の流れの中に友人の子供の写真がある、ということについてはどうなのか。その写真の子供はこちらを向いて笑いかける。まだ直接会ったことはない。でもその笑顔を知っている、ということをどのように考えるべきか。友人の子供は断じて「さして面白くないエンターテイメント」ではないにも関わらず、そのような気持ちでしか時間の流れを見ることができないのは、自分の「面白がろうとする意識」の欠如によるものなのだろうか、と不貞腐れてみたところで、いやしかし、そういう状況に対して、これはそもそもいったいどういう状況なのだろうと考えてみて、考えることに疲れてしまったり、そもそもその状況自体に疲れてしまうのは、どうしたら良いのか。そしてそこで「やっぱり『物』だな」とバックラッシュすることにも、さして面白い可能性がないように思えるのならば、いよいよどうしたら良いのか。


ジル・ドゥルーズは「コミュニケーションは金銭に毒されている」というような意味のことを言ったと書いてあったけれども、また別様に考えれば「通信された情報」はそれ自体が「毒」なのではないか。例えばそこに(スクリーンに)うっとりするような言葉が記してあったとしても、その「うっとりすること」は「毒」によって媒介されているかもしれない。アルコールもカフェインも、毒は薄められることでうっとりできる。しかし他者との関係それ自体は「毒」でも「薬」でもない。他者は他者だと思う(ひとまず解釈しないものだとして)。そのことを掴まえるのに、そのことを考えるのに、なぜこんなに大変な思いをするのか。人と直接会って話をすることよりも、メディアを通じて断片的な情報を得ることの方が多くなってしまうから、何かがおかしくなるのか。しかしすぐさま、このような「誰でもが言いそうなこと」しかも「ずっと昔から言われているようなこと」かつ「良識的、的なこと」がさしあたりの自分にとっての結論で良いものだろうか、という疑問を差し挟む。自分が確かにそう思うのだとして、そこに考えを定位することに、思考の可能性はあるのか。そう疑問を持ち続ける。そしてそのような疑問とは別にある、「自分がさしあたり『映像』ということを考えの対象とするのにあたって、そのような考えにとらわれることで、何かが考えられなくなってしまうのではないか」という疑問は、また別の疑問として、さしあたり隣に置いておく。