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  映像研究

月報のような間隔になってしまった

 
・2015年もはじまって二ヶ月近くが過ぎて暦の上では既に春。時間は完全に飛び去った。時間はあっさりと飛び去った後にいつもからだが残される。残されたからだは偶然にまた何かを考え始める。毎年同じサイクルで業務が一段落するから、毎年同じように一年分の疲労、とは言いたくない「澱み」のようなものがぼんやりとありつつも、春からやりたいことやるべきことやらなくてはいけないことが各種リスト的に挙がりつつ、大抵は準備しきれないまますっかり春になる。しかし「大抵は準備しきれないまますっかり春になる」からといって「準備しない」ということにはならないだろう。なってはいけないという自戒を込めて。いろいろと準備することがある。そして何よりも準備をすることは「楽しい」。


・違う場所で生活している人を知るための旅行に行った。東京での暮らしを離れて瀬戸内海の島での暮らしを始めている人がいる。その人とその人の生活をじっと見る、じっと聞く、じっと感じるような旅行だった。それはその人やその生活を表面的に「解釈する」こととは違う。ましてや表面的に「批評する」こととも違う。あるいはしかし本当の意味での「解釈」や「批評」はそういう確かな観察に宿るのかもしれないとも思う。自分ではない人の生活を知ることは自分がその人とは別の生活をすることでしか「応答する」ことができない。そういえば自分もまた「住む」ということや「生活する」ことを手がかりとして、おそらくは何事かを考えてきたのかもしれない。


・「住むこと」あるいは「住宅というもの」そしてそうした空間を立ち上げることとしての「建築」ということを考える。自分はどういう場所に(どういう建築とともに)生活をするのか。偶然にも2015年の間にはそうした問いに対する自分なりの(自分たちなりの)暫定的な応答をしなければいけない。必要に迫られたしかしそれは自分にとってのテーマでもある。不動産サイトに検索の項目を打ち込んでそこで出てきた物件のディテールを見ることは致命的に(時間がどんどん奪われるから)面白いことだけれども、実際に検索をしても全然心時めくような物件が出てこない。そんなときに一番良いのはその町を歩いてみることではないかと思いつつ、しかしそう思いついたのが既に夜中であったならば、グーグルのストリートビューというサーヴィスを使って、その町のストリートをビューする。


・「イメージとイメージの接続」「断片的イメージの接続」と言ってみて、なおかつその「接続」は「創造=抵抗」でもあると言ってみた。どういう根拠があってそれ言っているのですか?と尋ねられても簡単に答えることができない。「簡単に答えることができない問い」はそれ自体面白い問いかもしれないけれども、一方で「簡単に答えることができない問い」がつねに問いとして有効な力を持っているかどうかはわからない。その問いは単に「よくわからない問い」あるいは「問うことが成立しない問い」なのかもしれない。それを検証することは難しい。同時に「イメージと生命の関係」とも言ってみる。言ってみることは自由だとしても。


・生命を管理する技術、というものがすごい勢いで拡大していると思う。それは「管理することができないと思われていたものを管理できるようになる」ということでもある。「生命の管理」は「生命=イメージの管理」のかたちを持って現れる。あるいは「生命の操作可能性」ということもある。あるいは「操作できるもの=イメージ」という前提から何かを考えることができないか。イメージと言ったときにあまりにもそれは茫漠としている。しかし一方でコンピュータ・ネットワークは当然のように技術としてある。あるいは環境としてある。そのアーキテクチャあるいは生態系的なものを展開させる原理がどこにあるのか、という問いをたててみて、自分にはやっぱりそのことと例えば「ジャケットにはレザーシューズと見せかけてあえてスニーカーを合わせてみる」ときの「あえて〜してみる」という部分に何か秘密があるような気がしてならない。この思考はひとまずここまで。


・と同時にいつも、スニーカーもレザーシューズも、そしてジャケットも、あらゆるものはそれが物質である限りは緩やかにかたちを変化させているということが気になってしまう。綻びる。朽ちる。味が出る。風化する。物が変化することに関連した動詞を思いつく限り挙げてみたい。物が変化することのフェティッシュ(適切な言葉が浮かばないので仮に)だけをつきつめていくとクウネルを熟読することになる。それを侘びとか寂びとか言うのかもしれない。一方でデジタル・データはそうした動詞を組み合わせることによって文を作ることができない。デジタルイメージを仮に「画像」と呼んでみるのだとして「画像が綻びる」「画像に味が出る」とは言わない。それは単に「壊れる」あるいは「読めない」と言われる。そのことについては多分もう少し考えるべきだと思うし、考えてみたい。