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  映像研究

問題を出します

 
201808051342。出遅れた。少し寝坊して少しさぼって少しぼんやりして今。中央図書館のPC持ち込みコーナーで作業を始められないでいる今。怒涛の一週間が過ぎた。ここからが夏の本番だと思う。同じような内容の仕事を毎年少しずつ更新する自分のような人間にとって日記を書くことが良いのは、その微妙なしかしはっきりと異なる経験について感じることができるからだ。書いていた自分、ナイス。と思う。10年メモは脱落してしまった。いつかこの「誰でも読むことふができるが誰に向けて書いているのでもないテキスト」が他ならぬ自分にとってどういう意味を持つのか、時々考える。


.先週は東北の友人が務める大学へ。大学見学&観光のつもりが気がついたらほぼ仕事のようなイベントの手伝いをしていて、しかし結果的にそういう関わりがあるからこそ知ることができることもある。巻き込まれ系夏休みの骨頂。昔から知っている友人が良い仕事をしているところを見ることは楽しいし自分の仕事を考えさせられる。業務とか仕事とかその違いとかそんなことを言っていられないような地点で話をすることも面白い。あのとてつもなく変なキャンプのことを自分はずっと覚えているだろう。変なキャンプを沢山してきた。その突端として。そしてもう20年近くも「グルーヴ」とか言っている。順当に行けば年長者はどんどん死んでいくのだなぁとつくづく思うことがある。隣にいた身近な人たちが気がついたら皆自分のゼミナールを開講している。「自分の番だ」と思うことがある。


・東京に帰ってきて休む暇なく合宿的授業の5日間。この小さなライブハウス的空間がひとまず自分の場所なのだと思う。「ホーム」などと安心することなく、しかしまずはこの小さな箱の中に力が満ち満ちている状況を作らなくてはいけない。作りたいと思う。力あるいはエネルギーあるいはグルーヴについて。教育ということを都合よく使いながらどこまで全然違う可能性を感じさせられるような「場」を作れるか。同時に自分が適切に消えることができるか。東北の旅の結論は「映像を教えることは不可能」ということで、それを結論としてみるのは(逆に)面白い。「映像を教えることは不可能」。だから例えば自分は「映像の歴史についての小噺」をジョッキーしつつ「カウンセリング風何か」のようなセッションを行う。教えてはいない。


・「高揚感」について考える。それは自分が何よりもJ-POPのようなものを徹底的に受容してきたことと関係があるのか。物心的なものと同時にJ-POPのアーカイヴィングが始まり、現在も部分的に継続している(水曜日のカンパネラ)。あるいは自分が『アメリカ横断ウルトラクイズ』のようなものを徹底的に受容してきたことは、現在の各種判断にどういう影響を及ぼしているのか。自分が(それほど熱心に見ていないなりに)『asayan』のようなものが持っているエグ味に反応することはどうか。そのことを誇るでも開き直るではなくしかし、自分の思考やコミュニケーションに明確に関係があると思う。「問題を出すこと」の欲望とは何か。「問題を出しまーす」と言い続けてきたかもしれない。自分にとって学ぶことは「善く生きるために必要であるから」の他に「問題を出さなければいけないから」なのではないか。あるいは「問題を出すからには問題の数十倍の背景を知っておかなければいけないから」なのではないか。「問題を出す」という問題。


・「答えのない問い」という言葉は好まれる。「解けない問題」という言い回しが好物の者もいるだろう。じゃあ「答えのある問い」とは何か?と問う者もいる。すべての問いは答えないどない的な答えは明快で、しかし「問い」と「答え」の二項では問題の掘り起こし甲斐がない。そこで、では「プロセスだ」と。点ではなく線だと、線でもなく時間だと、時間でもなくカオスだと、脳だと、ネットワークだと、言う人も、言わない人もいる。個人的には「答えのある問い」も結構面白いと思っている。かつ「プロセス」というマジックワードは温存しておいて、セッションを続けるということ。「カウンセリング風何か」のようなセッションが「ライブ」になり、そこで何かが「わかる」ということ。答えではなく制作のモチベーションをどう駆動させるのかということについて。これは覚書。


・自分の欲望は「問題に対している人を見る」ことにある。あるいは「見ること」の中に「問題に対している場面」を設定したいというか。勝手にデーモンのような「問題」を仮構し、口承のみで、「見える」ようにすること。なまはげのように。その結果、自分の目の前には「見えてしまっている人」が現れる。その「問題というデーモンが見えてしまっている人」を「見たい」ということ。だから「ここにいるよ」と言いたい。あるいは指を差したい。自分がデーモンになる系の教育プログラムではなくデーモン紹介系ファシリテーション。「困らせたい」ということではないのだが、しかしこれもまた「暴力的」なことであるか。