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  映像研究

書くことを思い出す

 
・書くことを、言葉を記すことを思い出す。全然書くことを思わなかった時期を経てふと思い出す。あるいは思い出すために、さしあたり、とりあえず、書いてみる。手を動かすことで生まれる発想があるように、書くことで輪郭を持つ考えがある。林道郎という人の『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』というシリーズの一冊をふと手に取ってみて、その絵画について書かれた部分から色々なことを考えつつも、その中で引かれた「自由は状況の中にしかない」という格言のような文句に具体的な別のイメージを思ったりする。本を読むことを思えない時期にも、本を読むことを思い出すために、さしあたり、とりあえず、ページをめくる。


・「見ること」と何度も言葉にしてみて、しかし、実際のところ自分はどのような「見ること」をしているのか。しかもその「見ること」とは、文字通りの「見ること」、いま右手にある窓を開けて、離れの屋根の向こうに見える木。芽吹いたばかりの大きな木。ブルーベリー畑をはさんだ隣の家、その家の前に立てられたフェンスだ。家のすぐ裏手では道路をつくるための工事が始められていて、その様子を時々見たり、その音を聞いたり、その揺れを感じたり、忘れていた頃に様子が変わっていて、驚いたりする。変わらない物は何もないし、(ロマンティックな言い方をすれば)逃げられるところはない。


・変化に対して何ができるか。ひとつには驚くことができる。積極的に驚こうとすることが、驚いたふりではなく、またパフォーマンスとしてではなく、できるかどうか。だから毎朝驚いても良いと思う。昨日の出来事に、その場所で目覚めたことに、かつて居た人が居ないことに、驚き続ける。そしていつかその驚きも日々の生活の中に相応の位置を見つけるかもしれない。


・2014年4月3日は益子へドライブに行ってきた。名目としては飯茶碗を探すために行ってきた。本当ならば焼物が焼かれている窯とか、その周りの場所とかをもっとよく見たかったのだけれども、慌ただしい予定だったこともあり、また雨が降る寒い春の日だったこともあり、品物を見ることしかできなかった。それでもやっぱり実際にその焼物が焼かれている場所へ行って、その場所で売られている茶碗とかを見ることはとても面白い。大小およそ20軒くらいのお店を見て、飯茶碗にしておそらくは3000個くらいを見て、その結果、作家ものの洒落た品とか気になりつつも、最終的には「共販センター」というところに大量に積まれていた一個580円のものが、色も、大きさも、かたちも、質感も、手触りも、その580円であるところも、大量に積まれていながらやっぱりひとつずつ少しずつ感じが違うところも、すべてが気に入って、購入した。そういう何かを気に入るような買い物ができることを幸せだと思う。


・少し前の備忘録を読み返してみたならば「旅行に行きたい」と書いてあって、そうか自分は旅行に行きたかったのかと思う。すっかり旅行が楽しいと思えるようになってしまった。泊まりで行く旅行はもちろん楽しいけれども、日帰りで少し遠くへ行くことももちろん面白い。3月は葉山と上田へ行った。行ったことのない場所を歩くことは、入ったことのない店へ入ることは、楽しいということを思いだす。色々考える。