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  映像研究

左様ならば

 
・さようなら、2012年。時間の区切りを前にして、過ぎた時間とこれからやってくる時間に思いをはせる日。晦日。12月30日。明日は大晦日で、もうすぐ新しい年がやってくる。新しい年になる。そういえば2012年は時間について考えるような時だったかもしれない。流れる時間。流れるものとしてではない時間。時間とは?ふとしたきっかけで手にすることになった『時間イメージ』という本を読んだりもした。そして、


・波がやってきた。あの、いわゆる「いま波に乗っています(良い意味で)」ということではなくて(そうだったら良いなぁ)、あらゆる場所で、あらゆる人に向かって、強い、大きな波が押し寄せてくるようなイメージを取り払うことができない。大きな波が押し寄せて来たならば、同じ場所に立っていることができない。同じ場所に立っていようとするならば、目を閉じて、ぐっと力を込めて、足を張り付けるようにして、集中して、波の強さにただ耐えるしかない。そうして波と波の間のほんの少しの静かな時間に、閉じていた目を開けてみたならば、周りの風景はすっかり変わってしまっていた。すぐ隣にいた人は遠くに行ってしまった。住んでいた建物は見えなくなってしまった。ゆえに、自分が波に攫われていないという確信を持つことができない。目を閉じて、目を開くまでの時間に、何が起こったのだろう?本当は自分も、目を閉じる前とは別の場所にいるのかもしれない。…かもしれない。


・そしてその波は、どうやらこの先も何度も、繰り返し、訪れるようだという予感を誰もが知っている。そして自分は、多くの人がからだを硬くしているようなイメージを取り払うことができない。自分のからだが硬く強ばっていくようなイメージに抵抗したい。からだを硬く強ばらせると、うまく声を出すことができない。リズムを取ることができない。音楽を聴き取ることができなくなってしまう。しかし「いまあるリズム」は捨てなければいけないかもしれない、とも思う。捨てるまでもなく、気がついたら別のリズムにからだが動いているようなこともあるかもしれない。いままでならば不格好だと思うような、新しいリズムで踊り出すかもしれない。「どもる」ようなタイミングで話し出すかもしれない。別の、いまままでとは違ったリズムで動くことによって、また新しい考えが生まれるかもしれない。でも声は出す。あらゆる意味で。もちろん文字通りの意味で。会話をするだろう。対話もする。


・「わたしは変化することを受け入れたいといつも思っています」と言っていた人に、本当に、そんなことを言う隙も暇もないような、圧倒的な変化が訪れるというようなことはどうだろう?と考える。テクノロジーの進展に(あるいはもはや商品の広告として)「革命」という言葉が使われるようなことを、誰も悪ふざけだと思わないようになるようなこともどうだろう?と考える。それは例えば「民衆」とか「人民」という言葉が、何を指しているのかを考えることである。


・ひょんなことから(ひょんなことが極めて多い人生)1月後半にはじめての「上演作品の演出」をすることになっていて、それは通っている学校の授業の発表なのだけれども、授業とは言えまさかそんなことになるとは思っていなかった。というか共同制作的なパフォーマンス(なのかどうなのか)の企画を出してそれが採用されたという意識だったので「これ演出かなぁ」と思いつつ困っているのだけれども、それは単純に言い訳かもしれない。基本的には楽しみにしている。そしてそれは映像についての実験になるかもしれない(実験映像ではなく)。教育についての実験になるかもしれない(人体実験かもしれない)。映像を使った教育と、映像についての教育ということについてぼやっと考えていたようなことも、少し関係があるかもしれない。そして映像とともに「人が言葉を話す」という行為をメディウムとして扱うのならば、それは言語行為をニュートラルに捉え直したいということかもしれない(過剰に称揚するでも過剰に警告するでもなく)。言葉を話すことと、映像が映されることの関係について考えるようなことかもしれない(サイレント映画活弁士の関係)。そして自分とはさして関係がなさそうな映像を見ることや、自分とはさして関係がなさそうな他者の話を聞くことを、退屈だと思ってしまうような意識に、それとは違った「見ることと聞くこと」の意識をそっと忍び込ませたいということかもしれない。そしてそれはこれまで何度も何度も言ったり書いたりしていた(念仏のように唱えていた)「結婚式のビデオは面白い」ということについての実験でもある(かもしれない)。


・12月29日には今年も大きくお世話になった一番頻繁に行く飲食店、某小金井のカレー店にて忘年会。忘年会であると同時に同窓会のようでもあった一瞬。お酒を飲んで美味しいものを食べて笑ってしかいなかった、ほんの隙間の時間。朝までカラオケの誘惑に打ち勝って終電で帰宅。


・書いている言葉はいつも途中で途切れる/時間が来たら途切れる/何かを「する」ことに集中するために途切れる/言葉を記すのはどこにもある何でもないことであると同時に特別な距離感を必要とすることでもあるから何かを「する」ときには一度忘れる/空中に浮かぶあるいは地面に潜る/地上に足をつけるあるいは地面に顔を出すその別の(でも同じ平面の)場所でまた言葉を記す。例えば年と年をまたいで「明けまして」と言ったりしながらまた別の場所で。