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  映像研究

中断と中断のあいだ・20150924

 
・中断と中断のあいだはふいに訪れる。木曜日の正午に調布のドトール・コーヒーにて。MacBookを開いてテキストエディットを立ち上げることができる。少しの時間があった。シルバー・ウィークを慌ただしく過ごしたのち、周囲にも日常が戻ってくる。何らかのハレをつねに求めている今日この頃。ある一定以上の金額のお金を支払うことは心に何らかの印象を与える。このようにして人は浪費をするのかもしれない。


・先週は参議院の会議の様子が気になって、気になったから国会前に何度か行った。約束したわけではないけれども友人と会う。あるいは同僚と何となく一緒に向かう。そして家族と国会前で待ち合わせる。デモンストレーションに一定の時間参加した後には飲食をするだろう。深刻なもしくは下らないことを話す。話して笑う、そのことで何かが少し緩む/弛む。その弛みのようなことを誰もが知っている。本当はこのような幸福な時間があることを知っている。そしてそういう幸福な時間と圧倒的な危機は同時に存在している。存在しているように思える。そのことをどう考えたらよいだろう?


・デモンストレーションの現場にいる時には、ある種のカタルシスのようなものが確かにあって、それに流されないようにしっかりと「見る」ことをしようとする。それは文字通りの見ることで、目を閉じて何かを考え始めた瞬間に別のカタルシスが始まってしまうから、そのことから目を逸らそうとする。日本共産党が野党の連合を呼びかけたというニュースを読んだ時にも、ある種のカタルシスが降り掛かりそうになった。それは八王子駅の駅ビルで、散髪の予約の時間まで少しの余裕があったのだから、ふらっと入ったファッションビルで、エスカレーターを昇りながら、スマートフォンで見ていたテキストだった。その時の自分の心の動きを備忘録しておきたいと思った。「日本共産党」について、いつかもう少しまとまった時間を使って考えて、考えたことを書き留めておきたい。


・アップル・ミュージックというサーヴィスを自分の生活に導入してから音楽の聴き方が変わった、という話を仕事仲間がしていて、色々思いつつも自分もそのサーヴィスに加入してみた。3ヶ月間は無料だ。その後は1ヶ月につき980円を支払う。支払うと様々な音楽が「聴き放題」になるサーヴィスだった。いくつかの音楽家、ミュージシャンの名前で検索をしてみたら、あったりなかったりした。これはひとつの実験。


・2年6ヶ月住んでいる今の住宅から引っ越すことが決まって、今の住宅を愛しているからこそ、今の住宅に住まなくなるのだということをまともに考えることを避けている。住宅のすべての部分に触れて、すべての場所からすべての方向に向けて、自分が持っている限りの最大の解像度で写真を撮りたいと思うけれども、同時にそのようなかたちで今の住宅を名残惜しく思うことも、何か違うような気もする。住宅とは何か。引っ越し先は築1年半のアパートメントで、そんな住宅に今まで自分は住んだことがないのだから、緊張している。住宅について考える、あるいは住宅について考えたい。いつか自分が決定的な、「この住宅に死ぬまで住むのだろうな」という住宅に住むことがあるのか、そのことを望むことがあるのか。


・労働は生きることの必須条件ではないし、賃労働でない「はたらくこと」すら自分にとっては、あくまでも生きている時間の中のひとつでしかないと考えている。考えているけれども同時に労働ということを導入として生活することについて深く考えることもできるのだし、何より労働には労働の快楽がある。その労働の快楽と付き合いながら、労働の中で/労働の外で、何事かをなそうとするだろう。そう思うのは自分の労働が別のフェーズに入ったことに気がついたからで、フェーズには始まりもあれば終わりもある。「終わるのも悪くない」と木皿泉市川実日子の声を借りて語っていた(『すいか』)。自分にとってのいつくかの別の事柄についての終わりと、他者にとっての決定的な終わり、終わりに近づく動き、その変化を見る。しかし自分はいつか「はじまり」と言っていた。いつから「終わり」について考えたり、それを言葉にするようになったのだろう。おそらくそのことに関係しているのであろう出来事が、いくつか思いつく。