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  映像研究

日記

 
・最近購入した田中功起さんの『必然的にばらばらなものが生まれてくる』という本を読んでいた。作品の記録のようなテキストも、作品の説明のようなテキストも、作品を制作する中で考えられた事柄も、エッセイのような文章も、それぞれ読むことから色々なことを考えることができる。個人的には近年の「ある集団にタスクを与えてその話し合いの様子を映像で記録する作品」を「造形(性)」という点から考察されていた部分が新鮮だった。あるいは、これを「ひとりのアーティストの作品集」としてだけではなく、2011年3月以降に、例えば現代美術を専門にする人が、どのような思考によって、他の人にはたらきかけるための出来事を作り出したり、その出来事と向き合ったりしてきたか、という記録としても読むことができる。


・ひきつづき山本理顕さんという人の『個人と国家の〈間〉を設計せよ』という文章が面白いので、具体的な建築や住宅に関わる事柄についても読んでみたいと思って『地域社会圏主義』という本と『地域社会圏モデル』という本を借りてきた。ベースとしては「家族」という単位を中心として「個人と国家の〈間〉」を考えない、そして「一家族=一住宅」ではない住宅や地域について構想するということがあると思うけれども、たとえばそういう一瞬(人によっては)抵抗感を生むこともあるような問いを媒介にして、色々な人と「今の生活」について意見交換をしてみたい。「労働と余暇について」「衣・食・住それぞれのこだわりや不安について」「生活と自然について」「生活とテクノロジーについて」。そしてそれらは色々に違った生活の中での「都市」に対する距離感あるいは濃度の違いを明らかにするかもしれない。


・例えば「本を読むこと」「人と一緒に何かをすること」「移動すること」「快に対して開いていること」をイメージとして持ちながら何事かを構想したいと思うけれども、それらは「何かを面白がろうとすること」に集約させることができるかもしれない。けれども今はそのこと自体を難しいと思わないこともない。ならば「何かを面白がること、を取り戻す」という壮大かつ日常的なプロジェクトを考えることもできる。その中で高級な(学ぶことがあり・自由で・手作りの・安上がりな)娯楽のようなことを(再び)考えないわけにはいかない。かつて自分が採用したアイディアや方法は、今それぞれどのように有効かあるいはそうでないのか、考える。例えば今「しっかりと文章を読むこと」が必要だと思って、その「しっかりと」の中にはどういう意味が含まれているか。ぼやっとした問いを投げてみる。ソーシャル・ネットワーク・サーヴィスとは関係のない(関係しても・関係しなくても・どちらでもいい)ようなところで、何かをする。別の話し方で、別の速度で、別の必要性で、何かを構想するかもしれない。そういうことを最近人と話した。


・時間を前に進めば進むほど、過去のさらに過去に起こった、なされたことが気になってくる。それは幹の高さと根の深さが比例するようなイメージかもしれない。30数年を生きた自分は自分が生まれる以前の(あるいは物心がつく以前の)やはり30数年のことをよく知りたいと興味を持つかもしれない。「なぜ歴史を知りたいと思うのか」世界史も、美術史も、映画史も、写真史も、絵画史も、哲学史も、イメージ史も、社会運動史も、ファッション史も、テレビ史も、サブカルチャー史も…、色々な視点から、色々な人によって、色々なスケールで、物語られる。その物語を読みたいと思う。過去に学ぶ、というような「即効性」はない。覚えた事柄のほとんどは忘れてしまうかもしれない。そういえば先週はお彼岸だったので妻の方のお墓参りに行ってみたのだけれども、墓石に全然知らない年号と名前が刻まれているようなことも興味深い。美術や哲学は50年くらい前(68年という何事か)よりも80年から100年くらい前のことが気になってきた。ベンヤミンの複製芸術論は1936年に書かれた。その時代の芸術や、映像や、人の生活や、戦争との距離感を知りたい。現在と繋がった過去の「生活」の想像をできる限り遠くまで延ばそうとする。そうして人よりも物が、人よりも建物が、人よりも風景が長い時間を持つ、というようなテキストが最近気になっているのか。街(現在)と山(人間以前)の〈あいだ〉には、目を凝らせば無数の「生活」やなにかの「実践」を見つけることができる。


・そういえば9月の休日にはずっと念願だった多摩川の河原にある「たぬきや」へ行き、同じく休日だった友人2人と合流して昼間からビール。昼間から川沿いの店でビールを飲むことの素晴らしさはそれはそれとして、稲田堤から方角を間違えて、とりあえず河原に出たならば、しばらく多摩川沿いを歩く。それがもう楽しい。河原に出る前に知らない住宅街を歩くことも楽しい。あるいは別の休日には馬喰町方面を散策する。東京との海に近い土地を歩くのも楽しい。知らない場所からしばらく歩いていると「知っている場所」に出ることも楽しい。それぞれの場所には、それぞれにその場所で生活している人がいる。まったく当たり前のことだけれども、思わず「この場所はどうですか?」と聞いてみたくなるような。色々な人に話を聞く。そういうことを新たにあるいは再び始めてみるのもよいかもしれない。その場合は、さしあたり記録メディア(映像)のこと、それ自体については考えない。メディア=媒体=道具への関心よりも、現実への興味から始まる。そうすると「何かを面白がること」が少しイメージできる。