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  映像研究

抽象と映像の夏、2012年の8月・その6

 



南佳孝という人の音楽が好きで、かせきさいだぁという人の音楽も好きだ。『さいだぁぶるーす』も好きだ。タケイ・グッドマンという人の映像も良い。毎年夏になるとこの音楽を聴いている。そういえばこの音楽を聴き続けている。夏まで/飛び続ける/フリスビー、というフレーズを繰り返し聴いていることになる。波の音と街の音。ストロボ。ウィンク。その眩しさのイメージ。未だ辿り着いていない夏についての音楽。


・『千のプラトー』を少しずつ読んでいる。読んでいるけれどもつい別の本も読んでしまう。いつも行く某古書店の均一コーナーで『ドゥルーズの思想』という本を買ってしまったから、その本も読んでいる。これまでに自分が考えてきた/いるような事柄が書かれているその本を、少しずつ読む。


・(そんな本を読んでいた流れもあって)「王様は裸だ」というのが何のメタファーなのか最早わからないけれども、例えば権威があるとされているような人や物や事に対して、その人や物や事を付随する権威ともども批判する、という考え方があまりよくわからない。というか全然わからない。普段自分がよく会ったり話をしたりする人にそういう考えをする人がいないような気がするからなのかどうなのか。時々そういう人と話をする場面があるとびっくりすることがある。ー「成功している/失敗している」「勝った/負けた」「才能がある/才能がない」「価値がある/価値がない」「意味がある/意味がない」「こちら側/あちら側」「わかっている/わかっていない」「正常/異常」…ーそういう二元論を当然のこととして採用する人に対して、一体何が言えるのか。


・大学の図書館で國分功一郎という人が『思想』という雑誌に連載している『ドゥルーズの哲学原理』の新しい回を読んでいた。


・裁くこととは別の発想で、別の動きを、別の速度で。