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  映像研究

10年前、20年前

・回顧しないように回想しないようにと思っているが、日々何かを書くことはそれ自体想起することと結ばれる。とりわけ夏の気候は人を「ぼんやり」させる。ぼんやりする中で思うのは、過去の「ぼんやり」した時間だった。「ぼんやり」を、ビーズのように、想起の針と糸はさくさくと繋いでいく。「ぼんやり」の数珠つなぎ。2008年の夏は特別だった、と思う。なぜならそれは荻窪から高尾に移動した夏だったからだ。7月の後半に思いついて8月の後半に実現する。その速度が2008年だった。「身軽だった」と言ってしまえば簡単だけれども、実際は何事かを、今すぐに、できる限りさっぱりと、捨て去りたかったのだと思う。その感じを思い出したのは、日曜日の夜にちょっとしたパーティーのようなものがあり、それは国立だったのだけれども、その場所の感じ、エアコンの効いた決して広くない場所に人がわいわい集まり音楽が流れている感じ、その感じからある時期に自分が過ごしていた夏の感じを想起したからなのだと思う。


10年前の7月のある日に車で高尾に行き、数件の家を内見した。そのうちの一つの平家はその時はそこまでぴんとこなかったけれども、翌日もその翌日も気がつければその家のことを考えていた。そうして住むことになる。その日のことを思い出したのは、友人が新しい車を買いその写真を見せてくれたことも関係しているかもしれない。高尾には昔の実家の車(スズキのエスクード・ノマド)で行った。スズキのエスクード・ノマドが買い換えられる予定にあることは既に家族から聞いていたが、その時は自分で維持できるはずもなく、この車に乗れなくなることは仕方がないことだと思っていた。マニュアルの操作はもう面倒になったのだと言う。今高尾のことを思い出すときに、その車のことも同時に思い返される。夏のいくつかのドライブの記憶。


・そしてふと20年前の、1998年の夏を思い返してみたのだった。記録はない。記録はないが記憶はある。あるいは厳密に言えば写真はある(家のどこかに)。その夏は予備校に通っていた夏だった。あるいは厳密に言えば、予備校の夏期講習には登録しているが、実際は半分くらいしか授業に行かず、かといって特にやることもなく(一応夏期講習明けの展示のための写真を撮るというのがオフィシャルな「やること」だった)地元で友達と遊んでいた。地元らしい遊び方だった。呼ばれれば夜からでも遊びに行ったし、普段遊ばないような人たちと遊んだり、友達が友達を紹介してくれて遊ぶようなことがとてつもなく面白かった。そこで話されるエピソードが面白かった。あるいは変な映画を撮る打ち合わせとかもしていた。多摩川沿いでピストルを拾うとかいう・・・(学生が思いつきそうな)絶対に撮られない映画。そしてどこからお金ができていたのか不明だが、遊びに行き、飲食するお金はあった。多分楽しかったのだと思う。可能性はあったが、何かに努力をした記憶はない。


・20年前に同じ教室(レンタカー屋の2Fの)にいた友人のことを思う。思うも何も、今も身近にいる人が少なからずいる。その頃はそこまで親しくなかったけどその後仲良くなった人も結構いて、それはとても面白いことだと思う。その頃の教室で一番優秀だったSくんやHくんはほとんど歳が違わないのに凄いなぁと思っていた。何かのアイディアを発想することにおいて、まったく敵わない人が余裕でいるということが、少なくとも10代のうちにはっきりとわかって良かったのだと思う。せめて自分は文章を書くことでちょっと目立てれば、とか考えていた。実はそれは今もまったく変わらないのではないか、と考えると恐ろしい。そしてよくあるタイムマイン的なアレで「もしも今の自分が20年前の自分に『ちょうど20年後の夏に君はHくんが務める大学にSくんと遊びに行くことになるよ』と言いに行く」というのは、なかなか面白いし、その微妙な関係性の歪みにクラクラする、そして20年前の自分はぽかんとするだろう。「とりあえず20年後、自分は生きているのだな」と思うかもしれない。「まともに働いていなそうで、良かった」とも思うかもしれない。


・その想像力を2028年や2038年に投げてみるのも面白いが、全然見えない。見えないことは幸福だといつも思う。見えないかつ恐ろしくも楽しみであるということを幸福だと感じる。そういえば昨日新宿のアウトドアショップで偶然会った元職場の人の感じに打たれてしまったのも、そのあたりに理由があるのだろうか。最後に話した6年くらい前に(仕事そっちのけで)山の話をしていた人は、会ってない間も、今も、山のことを考えていたのだと知った。「やっぱり山に浸りに行きたいじゃないですか」と言われて「ああ!」と思う。打たれてしまった。そしていつか自分もそのような感覚を取り戻せるのだろうかと考えて、しかしそれは不可能かもしれない。なぜなら今の自分は山のことはまったく考えず、日々映像や写真について考えているからだった。日々考えていることが、その人を遠くへ連れて行く。今こうして読んだり書いたりしていることは自分をどこに連れて行くのか。こうした思考が夏の「ぼんやり」だった。