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  映像研究

20120622

 
・2012年の6月22日(金)のこと。夕方から都内に向かって19時前くらいに霞ヶ関駅で降りた。そこから国会の前に、首相官邸の前に、向かって歩いてみたならば、ある地点から同じ方向に向かって歩く人と出会うようになる。それは「デモ」だけれども「どこからどこへ向かう」というコースは(あったのかもしれないないけれども)なかった。「どこからどこかへ歩きながら街頭を歩く人に向けてデモンストレーションをする」ということとは、また別の、全く別の、全然違ったような「デモ」だった。訴えかけたい対象が、明確なデモンストレーションだった。訴えかけない事柄が、明確であるようなデモンストレーションだった。明確な対象に可能な限り近づいて、明確な対象に向かって訴えかけたい事柄を訴える。「再稼働、反対」と言葉に出してみたならば、それが、それこそがシンプルな、シングルな、要求だった。投票する機会もないし、ボイコット以前に大して物を買っていないような国民が、辛うじてできることだった。色々なトーンを持って言葉が飛ぶ。自分は主に困っていた。恐いなぁと思っていた。「ちょっとそれはないんじゃないか」と思っていた。思っていたことをシングルなイシューに託してみた。そして「わたしはこう思います」と言う人と「みんながこう言っています」と言う人の対話はいつも難しい。「みんながこう言っています」と言う人は「『わたし』は『みんな』のことを考えています」と言うのかもしれない。理想がはじめにあった。時間とともにその理想が変化することがあったとしても、それは理想を廃棄することとは全く違うことだということを、どうしたら捉え/直し/続けることができるかどうか。