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  映像研究

変わる。

 
・変わった。今、変わることについてばかり話している。あるいは今、変わることについてばかり考えている。みるみる変わっている。変化している人が多い。変わるなぁ。わかりやすく変わる。そういえば今日から12月に変わる。そしてもうすぐ2012年にも変わるだろう。



・久しぶりに実家方面へ行く水曜日。おからドーナッツなど持ってY邸を冷やかしに行ったところ「家を建て替えるのであと10日ほどしたらこの家を壊し始める」旨を聞く。いや聞いてはいたけどなぁ。あんまりにも急にその場所のその空間が変わる。そして新しく建つ予定の家の間取りなど見せてもらいつつ「これは長男の部屋…これは次男の部屋…」と説明をしてもらうけれども、その「次男」はまだ1歳だったのだから、そんな1歳の人が自分の部屋を必要とするような未来の時間を見通して何かを計画するなんて凄いなぁ、という普通に普通の感想(ドーナッツを食べつつ)。



・そして家を建て替えるのならば当然のように「物を捨てる」ことについての話。あるいは「(何を捨てて)何を捨てないか」についての話。そして「(何かを捨てた結果)何が本当に必要なのか」についての話でもある。そういうことを話すことが面白くもある、今は2011年の年末。必要に迫られて行う(季節と関係ない)大掃除についての話。自分だって11月の後半を使って部屋の色々な物を捨ててみたり、あるいはそもそも部屋の色々な物を「必要なのか必要でないのか」という判断にかけてみたりした。そしてその結果として、部屋という空間は同じでも、新しい場所になった(と思う/ことを願う)。



・ところで毎年冬から春にかけて強く感じるのは、基本的に毎年同じ季節に同じ内容の業務を行う型の労働をしている自分にとっては、その時間の経過をイメージしてみると、ある形を描くような、そして描かれた去年の形をトレースするような、そしてそしてその形をさらになぞるような、そしてそしてそしてその形が円ならば遠心力も働くような……、そういう類の時間の経過の仕方と自分の心境の変化について考えたり考えなかったりする、というようなことなのだけれども、しかし、そもそも「描いているその形が円じゃなくなる」ような変化があるのかどうなのか、ということを考えたりもする今日この頃。円でもないし遠心力でもないかもしれない。それが変わるということで、円を描きつづける手がリズムと慣性の快楽のようなもので動きつづけているときに、突如、全く違った次元の何かによって一度切断される。されるだろう。きっとされる。



・「あらゆるすべては常に変化し続けているのである」式の感覚というか何かはさておき、それはそれでその手の感覚とか、その手の感覚を説明した言葉は大体好きなのだけれども、もっともっとわかりやすく変わることについての(イメージの)備忘録。例えば気がつけば髪が伸びてたりすることよりももっと、例えば日焼けサロンでこんがり日焼けしたりすることよりももっともっと、例えば場合によっては一重だった瞼が二重になったりする的なことよりももっと更に、例えばクローゼットの洋服を総入れ替えすることよりももっと更に全然、例えば変わることとはどういうことなのか?



・やっぱり、何をどう、どのように(何度か/何度も)考えてみても、はじめには「驚き」があった。驚きについて考えた。センス・オブ・ワンダーは、常に新しく、季節のように「次の瞬間」にめり込んで行く。そのような持続の、しかし先端部分の圧倒的な「新しさ」。そして、あるいはまた『再認』と『生成変化』という概念が登場しつつ「学ぶということは、認識の『失敗』があるということなのかどうなのか」というような事柄は最近読んでいる本の受け売りだけれども、それは「新しい経験はあり得るのか?」ということについてでもあるし、もっと単純に「新しい」とか「変わる」ということはどういうことなのか、ということについてで、それを考えている。あるいは、超単純に「新しいこと」の「新しさ」を捕まえることは、とても楽しそうだなぁと感じている今。



・話と時間と空間はY邸に戻って、おからドーナッツを食べつつ、新しい家の間取りを見つつ、ジェネレーションのXだかYだかZだかの話をしつつ、しかしふと自分が「いやー最近『変わる』ってことに興味があるんだよねー」と言ったところYは「『変わろう』と思った時点でもう『変わってる』ものだよね」というようなことをぽろっと言って、もしもそれが毛筆で一家言系のラーメン屋の店主的な人にそのような事柄を言われたのならば、きっと自分は恥ずかしくなってうつむくだけだったと思うけれども、それが普通に四半世紀の友達がぽろっと言った言葉だと、またちょっとそれとも違った独特の面白いニュアンスがあって、良かった。良かったから備忘録。変わることについて。