&

  映像研究

また本を読むことをはじめた。

 
・また本を読むことをはじめた。本を読んでいる。雑誌を読んでいる。ウェブのテキストを読んでいる。そういう色々な言葉を読んでその色々な言葉から何かを考えたりすることを総称して「本を読んでいる」。だから本を読んでいる。読みたい本はたくさんあるし読まなければいけないような気になる本もたくさんある。そして困ったことに読み返したい本だってたくさんある。ページからページ、言葉から言葉を行ったり来たりする。



・そして今、自分がこの何年か「お勉教」とか言ったり書いたりしていたことが、もちろんそれは簡単な、短い、単純な言葉では説明ができないような色々に考えたことが、しかしあえて少しまとめてみるならば、どういう事だったのかと考えている。いくつかのキーになるようなワードを挙げてみて、いくつかの気になった作品や活動を挙げてみて、いくつかの(少ないなりに)自分が行ったワークを顧みて、それらを並べた平面に、色々な方向から、色々な長さの線を引いてみたならば、何かのかたちは見える。



・個人と社会との、ひとりとひとり以上との、複数の人同士の、色々な関係があること。あるいは映像。色々な関係の中に映像があること。映像を撮ること。映像に撮られること。撮ることや撮られることを意識すること。撮ることや撮られることを前提として行為を行うこと。記録されることを前提とした行為。記録されることが織り込まれているような生。その難しさや、面白さや、楽しさに隠されているような恐ろしさや、色々な印象や気持ち。記念写真に優しい気持ちになったり、街の監視カメラに恐ろしい気持ちになったりする一方で、ネットワークには、そのどちらでもないような、そのどちらでもあるようなイメージがたくさん存在していることについて等。



・日本を離れて旅行している友達からメールという手紙(と言うのかどうなのか)が届いたならば、それを読んで、遠く離れた場所の、同じ時間の違う時間について想像しながら、そのメールという手紙に返事のような、返事になっていないような近況のような何かを送る。自分が考えていることを他の人に説明することは難しい。そして「本を読んでいる」ことを他の人に説明することも難しい。なぜ、今、何を勉強しようとしているのかを他の人に説明することはすごく難しい。あらためて自己紹介をしなければいけないと思うような気持ち。



・新しい年を前に、新しい季節がやってきて、新しい気持ちを知る。そういえば気持ちについて書くことも難しい。これまで各種居酒屋的なトークの場で「性格」や「気持ち」を完全に排して、人のすべては「顔」と「身体」のみである、とかなんとか話していたことも、驚くべきことに無関係ではないような気がしてきたから困った。その場合、ある人の「書く字」や「話される声」や「歩き方」や「何かを食べた時の反応」も、「顔」や「身体」にまつわることであるとかないとか。そういうことを話し合うのが、例えば忘年会の醍醐味のひとつです。



・気持ちについて書くことは難しい。しかし、気持ちについて書くことも2011年の目標のひとつであったような気もする。「物を語る」という意味での「物語」について自分なりに考えてみたい、というこの事もまた「本を読んでいる」ことと無関係ではない。そしてまったく想像しなかった意味で「物を語る」という意味での「物語」に溢れた、溢れてしまった今年だった。色々な人が、色々な近しい人が、色々に自分の考えていることを話した今年だった。そしてそれは自分もそうなのだ。そのことから「事物を事物のままに」「生きているものも鉱物のように」記録することとは少し違った表現について考えたのかもしれない。



・気持ちについて書くことは難しい。そしていつになく「自分自身(の気持ち)をコントロールしようとしている」あるいは「そうしたいと思っている」ような気持ちのことをどう考えれば良いのか考えたりもする。今まさに目の前にあるような事や出来事について集中して、向き合って考えたいという、新しい気持ちがある。集中して「多様な」「複雑な」「脈絡のない」「ばらばらな」ことを考えようとしていることは、普通に考えれば面白いのかもしれない。「ばらばらなもの」を「ばらばらなまま」つなぎ合わせようとしているのかもしれない。そのための集中。



・職場でちら見した『現代の美術』というシリーズの「行為に賭ける」という本が面白そうでアマゾンに売っていたので買ってみた。日常と非日常、プライベートとパブリック、芸術と反芸術、様々な概念や意識のあいだに「行為」がある。それはもう1960年とかからずっとある。建物を梱包したり岸辺に螺旋を作ることほどスペクタクルではないような、色々な「行為」がある。羊を連れて旅をしたり、石を砕いて砂にして森に撒いたり、そういう色々な「行為」を人はしてきたのだと思った。そしてそのような「行為」は記録される。あるいは「記録されることを前提とした行為」である。



・例えばそれは本屋にそっと檸檬を置いてくるような行為かもしれないと思った。それが文字に書かれた行為であれ、映像に撮影された行為であれ、記録された行為は、行為それ自体とは違った事になる、のかもしれない。行為する身体の集合について語る。そういう「物語」の可能性について考えている。