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  映像研究

また時間が流れた

 
・今まで話していた言葉書いていた言葉が役に立たないように思えたときに、これまでとは違ったことを考えるかもしれない。これまでの流れの中から自然に生まれる、違ったこととは何か。たとえば、小さな権力は目には見えないけれども至るところに存在している、と書いてみて、そのようなことを何かを観察するように記述することはできるのか、できないのか、と考える。一方、そのような既に存在していて時間とともにますます加速していくような波のような嵐のような、外部など存在しないと思われる中に、すっかりと身を浸して、何も解釈せず、外からの刺激に必要な反応をすることだけが、取り得る唯一の態度だ、というふうにはしかし全然思えないのだし、そもそも閉じられている内部など想像でしかない。しかしその想像を現実に見えるもの・聴こえること・機能する何かとして顕在化したのが電子メディアの進展ではなかったか。変化は常に起きていて、それは静かに、気がついたときに「あ、変わっている」というような事ではあるけども、一方では突然変わる。そもそも「突然」も「次第に」も程度の差でしかないのだから、それはいつも、自然に変化する。「現代の映像メディアは、」と書きはじめてみて、それがたとえば何を指しているのか。そのような問いについて(ぼんやり)考えていると、何も目的がない考えだというふうに思う。「目的は何かを伝えることである」という人や「目的は何かを記録することである」という人がいて、もちろんそれはその通りではあるものの、メディアについて考えることは当初から、メディア(この場合はテクノロジーによる再現)と身体とが接する状況について考えことであったのだし、あるいはメディアと身体が浸透し合うような、不可分であるという前提から出発したのだった。その不可分でなさを、たとえば「ドキュメント・フィクション」や「メタ・ドラマ」は、それぞれある方向から描写し、ときにその不可分さを(特定の意識に依らずとも)利用しようとする力を告発するような表現を行ったのだろう。それはもちろん適切な表現なのであったと思う。しかし今はどうだろう?