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  映像研究

スニーカーを12足(くらい)捨てるような気持ち

 
・捨てた。正確なところはわからないけれども可能なかぎり捨ててみた。そのようにしてこの数日、日々色々な物を捨てている。捨ててみるのはどうだろうかと思っている。「事実上生活に活用されていない」ことを基準として不要な物を一度捨ててみようと思った。押し入れに押し入れられている衣料品、家電が入っていた箱、何だかわからない紙類、そういった物を捨てることによって床に積まれた書籍を収納することが出来るならば、目に見えて部屋から物を減らすことが出来る。片づけについてのベストセラー本を読んだわけでもなくしかし掃除することが今何よりも自分にとって必要だと思う11月。この前遊びにいった後輩の部屋が見事に収納されていて羨ましかったことも理由だ。ヨーロッパに旅立っていったRくんが最終的に持ち物を「段ボール10数箱(?)」に絞り込めたと話していたことも理由だ。あるいは「ある時期思い立って持っている物の90%(くらい)を一気に処分した」高城剛という人を思いだしたことも理由だ。理由は色々ある。しかしいずれにしても、毎朝、冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを見ながら「今日はプラスチック…」とか思いながら、色々な物を捨てている。



・それで生まれて初めてくらいの数のスニーカーを処分してみた。そしてその結果、生まれて初めてくらいに持っている靴がほぼ全部下駄箱に入った。恐らくは10年ほど前に50足ほどあったはずのスニーカーは10足程度になった。ナイロンやプラスチックのスニーカーは破れたり剥がれたり崩れたり溶けたり(?)した。ナイキの赤と金のズーム・ワッフルも、アディダスのウォーター・モック3も、LA SPORTIVAのトレッキング・シューズも、ある時期にまったく無意識に、まるで自分の身体の一部であったようなそれらのスニーカーは、もう自分の身体の一部ではないのだなと思った。そうして初めてくらいの数のスニーカーを処分してみたならば、革の靴と革のスニーカーが残る。15の時に購入したスーパー・スターや16の時に購入したワン・スターは辛うじて履くことが出来る。しかしそれらももうすぐ履けなくなるかもしれない。その時に自分はまたスニーカーを買うような気持ちになるのだろうか。わからない。一生買わないでいけると思ってたんだけどなぁ。



・この数年、可能なかぎり、物を買わないようにしていたけれども、していたつもりでいても、これだけ物が増えていることも不思議だ。例えば、何となく貰ったフライヤーを、何となく取っておいたりするようなことが何よりも危険だ。気がつけば、既に終わってしまった、しかも行けなかった、イベントのフライヤーに囲まれて暮らしている。そのことの不穏さを感じ取ったならば、完全に間違った対処として、まだこれから行なわれるイベントのフライヤーを貰ってきたりする。そのようなエントロピー的な何かが増大した状態(適当)が恐ろしい。



・または「(ほとんど)何もない部屋にその物だけが置かれている状態、を良い感じだなと思った結果、(ほとんど)何もない部屋ではないのに、『その物』を取っておくようなこと」が危険だ。例えば『ていねいなくらし』的な雑誌の写真で、(ほとんど)何もない部屋の棚の上に「割れた皿」が置いてあったからと言って、自分が「割れた皿」を取っておけば良い感じになるわけではない、ということが最近ようやくわかった。なぜ今までそのことに気がつかなかったのか本当に不思議で仕方がない。皿が割れる。ああ割れたと思い、しかしそこに「もののあはれ」だか「趣き」だか何かを感じてしまったならば、確実にそれを取っておく。そして自分の部屋は「(ほとんど)何もない部屋」ではないので、割れた皿の横には、何かの雑誌や、何かのケーブルや、何かの箱や、文房具的な何がが置いてあったりする。客観的に考えてそれは「ゴミ屋敷」のロジックだ。「もののあはれ」だか「趣き」が部屋に溢れる。物語にうなされる。



・あるいは「専門的な作業をするために持っていると格好良いな、と思う物を何となく色々と持ってしまうこと」も危険だ。例えば木工関係の作業をしている場所で見た工具が、例えばイラスト関係の作業している場所で見た色鉛筆が、例えば日々料理をする人の家にある調理器具が、例えば服飾に関係した人が持っている古いミシンが(これは持っていない)、すべてひとりの部屋に存在していても、何も格好良くないのではないか、ということも最近ようやくわかった。なぜ今までそのことに気がつかなかったのか本当に不思議で仕方がない。多趣味という危険。



・そのようにして、物と、空間と、時間と、制度と、常識について考えたりもしている。新しい気持ちでいる。新しい気持ちに相応しい環境を思い描いて、その結果色々な物を捨てる。新しく考えたいことがたくさんある今。