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  映像研究

山から山

 
・ちょうど一週間前に、なぜかマイケル・ムーアの『キャピタリズム』のDVD(と数冊の書籍)を手渡してRくんは西欧の方向に旅立っていった。みんな色々なところへ旅立ったり視察に行ったりしている今日この頃。その色々な人の移動を少しだけ羨ましく思いながらも晩秋の東京。東京にいる。高尾にいる。麓の町から山を見上げる。「山」と口に出すと良い感じがする。文字通りの山である、周りの土地から盛り上がった場所である、文字通りの山を見上げながら、文字通りではない、もう少し個人的な、あるいはきっと自分の周りの人たちが、ぼやっと思い浮かべるような、イメージとしての「山」についても思う。色々な人が移動した、その先もまた「山」なのかもしれない。



・それでマイケル・ムーアの『キャピタリズム』のDVDを見てみた。前に一度見たけれども、きっとその時とはまた少し違った気持ちで見る。「資本主義」という名称の一本の映像。全然英語が(というかもちろんですけれども日本語以外のすべての言語が)リスニングできない自分でも「キャピタリズム」という語は辛うじて聞き取れる。そしてまた「フリー・マーケット(自由経済)」という語も聞き取れる。資本主義と自由経済という語が繰り返される、資本主義と自由経済が対象とされている、資本主義と自由経済が問題だとされているような一本の映像。それをいま、日本と呼ばれたりするこの国のある場所で見ているということについて。



・(追記)その後、同じくマイケル・ムーアの『シッコ』も借りてきて観てみる。医療と保険の制度について。自分はこの映画を公開当時に映画館で観ていたのだけれども、この映画もまた、いま観ると色々なことを考えるきっかけになる。例えば自分は「新自由主義的な政策」や「市場原理主義的な政策」について、そのような政策は、もしかすると「(生活することが)恐い」と言うことが格好悪い、という考えによって運営されているのかな、と思っていたけれども、それはどうなのか。誰もが誰か「恐れ」を自覚していても、それを前提として社会の仕組みを作ることができないということなのか、どうなのか。「セーフティ・ネット」という語と概念について思う。