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  映像研究

月曜日

 
・201810151024。起床してなかなか作業を始められない。NHKで放送されたドキュメンタリー番組をオンデマンドのサービスで見る。一つはECDについて。亡くなって間もない人の番組は内容はさておき辛いものがある。番組を作品として何らかの感想を言う気持ちになれない。政治と性が差し引かれていながら人の生を語ることに疑問を感じないことはないが、それは一概に批判できることでもない。あるいは批判をすること自体も問われなければならないだろう。その拮抗が考えることになる。「良かった」「悪かった」の判断を勇ましく下すことこそが疑われるべきだろう。


・一つは釜ヶ崎芸術大学について。ココルームの周辺を歩いたのは2010年のことだっただろうか。きっかけは小沢健二という人のトークだったけれども、その内容はほとんど忘れてしまって、辛うじて西成の風景を覚えている。この番組にも感想を言うことが難しい。表現や芸術以外の部分に「祈る」「信じる」という姿が映っていることが印象的だった。何かを待っている姿。生きていることが何かを成し遂げるとか乗り越えるとかとは違うものであることを考える。あるいは人が人に何かをしてしまう、ということが根本にある。


・自分が普段使っている言葉を全て検証し直さなければいけない。それは業務の最中に話す言葉も、論文と呼ばれる文章を書くことも、メモとして残す言葉も、全てそうなのだ。それはつまり自分の言葉が「攻撃されることに対する防衛的な言葉」になり、結果として、他者にも同じような語彙を押し付けていないか?という疑問でもある。言葉は難しい。急ぐと、強く見せようと勢いをつけると、何かを代表しようとすると、うまくやりこなそうとすると、怯えると、人を動かそうとすると、鈍感になると、大抵失敗する。失敗するしかないと思うこともある。


・「笑い」について。人はどういうときに「笑う」のか。何故この人は笑えるのだろうというときに笑う人がいる。そういう瞬間を目にすることがある。たとえば「生き延びた」と感じた時の笑い。日常の、自分が知っている笑いとは少し違う。あるいは自分の知っている笑いが、冷めた、乾いた笑いとしてとらえ直されるような瞬間がある。笑わない人を、笑わないままで、相対せるように。たとえばそこでつい笑ってしまう自分は、そういう性質を持つ者として、理解する。


・コンテンツ・モデレーター(ソーシャル・メディアの情報削除の仕事)について。「ぼくたちのような人間が働いていることを知るべきだと思います」舞台はフィリピンで製作はドイツ?だった。動画や画像を「見る」仕事。ガイドライン=法がある。知らなかったことを知る番組。アーティストはショックを与える。そのためにガイドライン=法をかいくぐってイメージを「創作する」必要がある、ということなのか。中断。


・友人からメールが届く。「誕生日おめでとう」を口実に、普段会うことがない友人に送ったメールに2ヶ月半して返事が届く。その2ヶ月半という期間を適切な間隔だと思い嬉しかった。再び中断。