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  映像研究

領域というようなことについて

 
・しばらく言葉を記すことを忘れていた。忘れている間に言葉についてずっと考えていた。言葉の力について。言葉の力のなさについて(言葉の何でもなさについて)。言葉が作り出す「ある感じ」や、言葉がぽろっと出ることによって現実の見え方が変わることについて。言葉の可能性について考えていたかもしれない。言葉を作らなくてはいけない。色々な言葉を色々な速度で作らなくてはいけないと思う。


・ちょっと背伸びをするように言葉を使ってみることによって、実際に自分の思考が先に進むということがよくある。「こうかな?」「ちょっと言い過ぎかな?」という言葉を自分の正面に投げてみることによって、現実が遅れてついてくるようなことがよくある。だから現実に追いつかれないように、言葉によってまだ見えないことを(それを「ヴィジョン」と言うのかどうなのか)イメージできるようにしなくてはいけない。新しい言葉は暗い場所を照らすように、新しい領域を見えるようにする。


・例えば数日前に「今はどんな感じだろう?」という話をしていて(大抵いつもそういう話をしている)、ふと「リッチ」という言葉が口から出た。リッチ、という言葉の質感、リッチという言葉に新しいイメージを見ることによって、ある「今の感じ」の輪郭が描かれる。「豊かさ」というようなことを考えていた。あるいは「贅沢」というようなことを考えていた。「自分にとって『確かなもの』」というイメージを思い描いていた。そうして「リッチ」という言葉を取り返したいと思った。「バブル」の方からこちら側に。あるいは「ブランド」という言葉を「信用」という意味として取り返したいと思った。と、いうこれは何の話なのだろう。


・言葉がある領域を(仮設的に)作り出すことや、ある領域がある感じを作り出して、人はその領域に愛着のようなことを感じるということは、とても普通のことのように思う。しかし「領域」を「領土」と、「愛着」を「愛国」という風に流用したときには、また別の面倒な問題が生まれるかもしれない。だからこそ「仮設的」であることは重要であるようにも思う。テントを立てて領域を作る。またテントをたたむ。移動する。あるいは「旗を立てる」という言葉もある。「旗を立てる」ことは「ブランド=信用」ということと似ているかもしれない。そう考えると「ブランド=信用」において「歴史」ということは必ずしも重要ではないのかもしれない。しかし甘いのかもしれない。


・すべての領域は、その輪郭線を引くことは、国のようなものを作ろうとしてしまうのか。法のような言葉を書くのか。そうでもあり、それだけでもないと思う。しかし厳密に書こうとする。厳密に書こうとするのは、今が「厳密に言葉を書くべき時」だからだ。2012年の10月に書かれる言葉の言葉遣いについて。端的に、必要な、厳密な言葉を書かなくてはいけない。説明書のような言葉、法のような言葉、手紙のような言葉、物語のような言葉、どれも少し似ていて、少しずつ違っている。そしてその違いに敏感になることは、言葉をデザインする場合には大切なことなのだと思う。そのそれぞれの言葉から「厳密さ」を引き出す。


・話された言葉を聞くことについて。誰かが話を始めたら、その言葉が続く限り、そのセンテンスなのか、そのお話なのか、息が途切れるまでなのか、ともかくふっと言葉が一度消えるまで、聞く。聞くだろう。聞くしかない。言葉を聞く方法を自分で学ばなければいけない。考えてみれば自分が10年以上に渡ってどんなかたちであれ継続してきたことは「質問をする」ことと「話を聞く」ことだったかもしれない。それだけだったかもしれないと思う。そしてもちろん「話を聞く」ことには、終わりがない。


・どうして「誰にでもできるようなこと」しかできないのだろう?と思ったりすることもあるけれども、それはそれで仕方がない。カラオケのようなことを肯定的に捉えること。


・暗号のような言葉。呪文のような言葉。信号のような言葉。どれもある秩序を持っていて、日常の言語感覚からはその秩序のようなことや、そもそもそれが何を意味しているのか、理解することが出来ない、そういう種類の言葉もある。念仏のような言葉は唱えられることであるグルーヴのような感覚を生み出すこともあるかもしれない。その秩序を知ることは、語の意味を知ることではなくて、リズムのルールを知ることではなくて(そういう方向からはきっと表面的なことしかわからない)、そのグルーヴを生み出すモチベーションの、テンションの方向から、その言葉を理解しようとしなければいけない。もしもある言葉を理解したいのだとして。あるいは言葉について学ぶのならば。


・だから文体というものは神秘的だと思うし、すべての「スタイル」とか言われるものは、本当はすべてが神秘的な事柄なのだとも思う。人に一番近いもの。人がひとりずつ違っていることと一番近いこと。そしてだから「文体」ということも、その動機から、その呼吸から、なぜそのような文体が生まれるのだろう?と想像するのは面白い。その想像は言葉ではない。だけれども、その想像で得られた「感じ」をもしも他の誰かに説明するのならば、やっぱりそこでは言葉を使う。イメージを巡る言葉。


・「全然神秘的でも何でもなくてこれはスタイル」と思って、ある言葉遣いをしていたり、ある文体で文章を書いていたり、ある洋服を着ていたり、ある食べ方をしていたり、ある人との付き合い方をしていたり、ある歩き方をしていたりしていると、しかし気がついたときにはそれが自分の身体から全く切り離せないようになっているというようなこともあるように思うし、本当はほとんどのことがそうなのだと思う。「天才」とかいう言葉は面白いし、そして実際グレートな人もいたりするから、それはそれで良いのだけれども、そういうこととは別に、スタイルがいつしか緩やかに神秘的とも言えるような領域を作り出すことも面白い。面白いことについて考えたい。