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  映像研究

台風が近づいていることをまだ感じていないなりに台風は秋を運ぶよう

 
・9月1日(木)の今日からは秋。月という概念に忠実だ。自分は「9」を見たら「秋」と考える。「秋」と考えれば、すすきとピラミッド状の団子を思い浮かべる。そんなものを一度だって現実で見たことは(当然食べたことも)ないけれども、その思い浮かべたイメージが「秋」だ。9月の具体的なイメージが全く無い。



・昨日魔法のデパート券にて購入したDOMMUNEの本2冊『DOMMUNE オフィシャルガイドブック-1ST ―DOMMUNE BOOKS 0001― (DOMMUNE BOOKS 1)』『@DOMMUNE---FINAL MEDIAが伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!! (DOMMUNE BOOKS 0002)』を一気に読んだ。7月と8月のサマー・スクーリングの期間あらゆるカルチャーが生まれては流れゆく様をTL越しに眺めつつも、その流れから何かを釣り上げる、あるいはその流れから何かを掘り起こす、そのような余裕が全く無かったなりに「FREE DOMMUNE 0」のことは気になっていたのだから、その2冊の書籍を一気読みすることでそのイベントの意義について初めて考えさせられる。あるいはまた(twitterを組み込んだものとしての)「USTREAM」という何かについて、その、メディアとしての/映像としての/アート・フォームとしての、意味についても考えさせられて、なるほど、とか、ううむ、とか思う。特に宇川直宏という人と松本俊夫という人の「『映像』とは何かー創造と共有の新しい形を探って」という対談は、ちょうど今読みたかったようなテキストだった。



・自分は主に「コンテンツとしての映像」とか言うよりも、どちらかと言えば「行為としての映像」ということについて考えていて、あるいは「関係としての映像」ということについて考えていた。というかそのようなことについて継続的に考えているつもりだけれども、それはつまり映像を、例えば社会的な活動のような、それを撮影することによって、あるいは鑑賞する場を作ることによって、現実的な人と人の関係が変化するような可能性を見いだす方法、というような方向から考える一方で、もう少し「ひとりの時間の事」とでも言うような、ひとりの人が思考を立ち上げる原理のようなこととして、あるいはその原理を考える上でのガイドやモデルのようなものとして、あるいは映像を捉えることはできないか、というような方向からも考えている。それはとりあえずは適当だ。



・それは、例えば、例えではなくて、言葉を、機能と原理というふたつの方向から考えてみるということかもしれないし、表現を、フィード・バックも含めた生成として考えてみるということかもしれない。如何せん未だ適当だ。というか、このようなノート自体が、言葉を(適当に)組み合わせてみることで、自分の考えにしっくりくる「感じ」を探しているということだし、だからそれらはどうしたって適当になる。だけれどもこの方法で何かを考えることは新しい。新しいというか懐かしい。懐かしいと思うことはしかし、その方法の道具や技術が変化しているという意味では(向上しているとかそういう意識は全く無くとも)いつも新くもある。



・ある時に、多分ある(幅を持った)時に、全く意識していなかった、何かが、強いていえば「感じ」が、はっきりと変わるということがあるような気が、超素朴に最近している。磁石を引きつけるような力の中にいたような気がしていたのに、ある時、今度は磁石が反発するような力の中にいるような気持ちになれば、少なくとも自分は気がついた瞬間にめちゃくちゃ驚いて、そしてしばらくは「ぼやっ」としてしまう。というこのメタファーがロマンス的な話とかだったらそれはもう完全に素敵だけれども、とりあえず今自分が感じていることは「『3月11日』について考える」ことであって、それは、ある時期には、磁石が引き合うように、スポンジがきれいに水を吸うように、新しくヴィヴィッドな情報を知ることが出来たのだけれども、それに対して今はそうではないというようなことについて考えている、ということだ。今は磁石が反発するような力を感じて、それに抗うように、からだを動かそうとするならば、そこで吐き出されるのはこのような抽象的な言葉でしかない。



・誰もが誰が状況に対して、反射的な反応しかできないような期間ならば、それが、その「反射的な反応」が、自然なこととして捉えられるのだろうし、場合によってはその対応が推奨すらされていたような状況があったとして、しかし時間を経て、色々な「反射的な反応」が出揃ったようなタイミングで、さて、では「現実的な対応として」どうしましょうかね、と誰もが誰が言い始めるような時には、途端に現在が、あまりにも複雑な状況であると感じられて、力が抜けてしまうようなことがあるのか。どうなのか。冷静に考えれば、それは「状況は絶えず緩やかに変化し続けている」ということであっても、ある瞬間には、まるで「何かの反動が起こっている」と感じられるようなことがあるのか。どうなのか。超素朴に感じているのは、対抗的な姿勢(暫定的な言い方)と言うべきようなものに乗っている場合に働く慣性の法則のようなことかもしれない。少しでも速度が落ちたと感じることが、からだのバランスを一瞬失わせるというようなことがあるのか。どうなのか。そのスロー・ダウンが、例え「総理大臣が変わる」というような、それ自体ぼんやりした出来事であっても。



・それでも、例えば「3月11日」の直後には、自分は、自分が、その状況と、状況の変化を理解するために、言葉を繋げて、それを残しておいて、それによって、少なくとも自分が、今の自分が、その後のあるコンディション(平常でないなりの平常、新しいベースとなるようなコンディション)を得ることが出来た、少しは出来たんじゃないか?と感じているように、今、また、何かが変化しているな、どんどん流されていくのかな、と感じているような時には、また、あらためて、だからこそ、言葉を繋げるしかない。書いておこう。書けることを書く。自己言及ぽいことってあんまりお洒落/クールじゃないよな、とか思いながらも、とりあえずは何かを残すしかない。その残した言葉もまた、流れながらも、新しいベースとなるようなコンディションを作るだろうことを待ち望みながら。



・超素朴に思うことは(と繰り返してみる)例えば、3月11日の後で、例えば「twitter」のような情報メディアが、色々な情報を色々な人に送り届けて(というイメージがある)そしてそれによって、色々な人がある判断をしたり、色々な人がある態度を示したりした(ように思う)ことを、基本的に肯定的に思う一方で、気がつけば「facebook」のような情報メディアに登録する人は、恐らくは(「3月11日以降」ということなのか、どうなのか)どんどん増えていて、でもそれは一体何のためなのだろう?というような、不思議な気持ちについて考えている。今だってfacebookのトップページを開いたならば、いつよりも楽しそうに(私見です)、いつよりも自分を売り込むことに熱心な人たちが(私見です)、いつよりも活発に自分のアクティヴィティを紹介しているけれども(私見です)、でもそれは一体どういう現状の理解から為される態度なのだろう?というような、基本的には完全に私見を前提にした不思議な気持ちについて考えている。



・超素朴且つ投げやり風な(投げてみた)言い方をするならば「東京という場所はきっとこの先も『こういうやり方』で続いていくのだろうな」という感覚があって、それはもう普段は、ほとんど全てのことを「お洒落か/お洒落ではないか」を基準にして考えている自分のような人間にとっては、黙るしかない。黙るしかないけれども、今こそ(驚きつつも/想定の範囲内と言わないまでも/きっといつだってそういうものだとも思いつつ)粛々と何かを継続するしかないとも思う。何か、はフェスティヴァルについて考えることや、読むべき本を読むことだったりする。そしてその継続する何かを通じて「こういうやり方」に対して考えることを、思うことを、まさに「別のやり方」として投げることができるならば、それが必要であると思う。