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  映像研究

イメージについていくらでも言葉を続けることができる

 
・友達が撮ってきたドキュメントの映像を見ていて、それがとても良い感じがする映像だったので、その良さについて考えていた。自分の知っている人が、自分の知らない風景を前に言葉を話していたり、自分の知らない人に向かって話しかけたりしている映像を面白いと思う。そしてその映像を見せてもらいながら話をすることも面白いと思う。映像でも、写真でも、指を差しながら「これがあれだよ」「へぇ」と会話をすることを面白いと思う。いつも、ずっと、そのようなことを面白いと思ってきた。あまりにも面白いので、時々、それ以外の映像や写真のあり方を忘れてしまうくらいに、本当に面白いと思う。



・その面白さは、その映像や写真自体が面白かったりするということで、そしてその映像や写真を見せてもらいながら会話することが面白かったりするということで、そしてその映像や写真を撮影した人が実際にその場所にいてその物を見ているからこそその会話が面白かったりするということで、更にその人を以前から知っているけれどもその時その場所にいたその人のことを自分は知らないという関係が面白かったりするということで、その面白さは案外複雑なのかもしれない。そしてまた、そのようなことを面白いと考える発想は、ある考え方を積極的に採用することでもあるのだと思うし、あるいは、戦略、というと少し物騒なニュアンスになるのだけれども、でも少なくとも自分にとってそれは「何かの感覚を捉え直すための方法」のようなことでもあるのかもしれないと思ったりもする。



・「結婚式のビデオ」という言葉が形容詞的に使われることが、かなり前から気になっていて、それは「結婚式のビデオを見せられるようなもの」と言ったときには、一般的には「被写体や撮影者以外は全く興味を持ちづらいイメージ/記録を見せられる(苦痛)」というような意味で使われると思うのだけれども、自分が考えていることは、超単純に言うならば「結婚式のビデオは面白いのでないか」ということで、あるいはまた「結婚式のビデオを積極的に面白がることは何なのか」ということかもしれない。「プライベート・ドキュメント」と言うときの「プライベート」とは何なのか。「個人的な記録」と言うときの「個人」とは誰なのか。そして「結婚式のビデオ」はなぜ面白くないと思われてるのだろう?そしてもしも仮に「結婚式のビデオ」が面白くないのならば、それを面白くないと思っている人にとって「面白い」こととは何だろう?



・ところで、それは「逆に面白いよね」ということでもない。パブリックでエンタメな映像に対して、プラベートで技術のない映像って何かキッチュでキャンプだよね、ということでもない。正確に言えば全くないかどうかわからないけれども、少なくともそれだけではない。あるいは、情報としての映像が溢れるこの2011年のサイバーだかハイパーだかのメディア的な環境において、作為のない映像って癒しだよね、ということでもない。正確に言えばそういうつもりが全くないかどうかわからないけれども、少なくともそれだけでもない。そしてもしくは、そういう無意識に近い映像をアーカイヴしまくって気持ち悪くなって一線越えると現代美術じゃね?ということでも全然ない。正確に言えばそういう考えが全くないかどうかわからないけれども、少なくともそれとは少し違う気がするなぁ。



・今考えているのは、基本的には、自分が、その、或る映像や写真を撮影した人のことを好きだということ。自分が好きな人が好きな場所や人を「面白いなぁ」と思いながら撮影した映像や写真を見ると、自分もその場所や人を知らないなりに好きになっちゃいそうになるということ。そしてその感覚を延長して行った先には、もしかすると自分が知らない人であっても、その人が好きな場所や人を撮影した映像や写真を見たならば、見る自分はきっと何かを想うだろうということ。例えばひとつ、そのことを考えている。だからこれは「映像メディアの特性」とかではなくて「私たちの生活とイメージ」が主題だ(暫定)。