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  映像研究

シェアー(巻き舌で)

 
博報堂という広告の会社から出ている雑誌『広告』の「特集:あなたは何をシェアできる?」が予想外に面白かった。たしか去年の後半に出た「若者を分析する」みたいな特集のときにも、多分に「シェア」的なことだとか「脱成長」的なことだとか、あるいは「ポスト消費」的なこととかが書かれていたように思うのだけれども、そのときの内容は基本的には「君たちが何を考えているのか、私たちにはわかるのです」的な、あるいは「買わない買わないって言ったってこうすりゃ金出すんでしょ?」的な、マーケティング的な戦略的なことの延長でしかない特集のように思えたのだから、自分としては特に面白くなかった。そして「ああ、広告を代理している会社の方々というのは、やっぱりそういう分析的な考えなのかぁ」と思ってしまったのだから、この雑誌に対しても特に良いイメージがなかった。



・そしてしかし「特に良いイメージがない雑誌を読んでみる」ことは大切なのだと思う。今回の特集に関しては「シェア」することについて考えてみることにおいて「物のシェア」「場所のシェア」「人のシェア」が挙げられていて、そしてまた「情報のシェア」ということもさかんに書かれているのだから、同時にまたこの『広告』という雑誌自体も、この特集記事自体も「『シェアする』っていうことが大切みたいですよ」っていう情報をシェアする、みたいな軽い語り方でまとめられているような気がして、それは思いのほか良かった。しかしながら『広告』という雑誌において、いよいよこのような特集が組まれることも興味深い。「広告する」ことと「物を売ろうとする」ことが同じことでないということが、はっきりとしつつある現在。そしてこのような状況においてもなお(なお、と言ってみた)「物を売ろう」「大量に売ろう」「不必要なものをどんどん大量に売ろう」と思っている人(がいるんだかどうだか/あるいは「なんだかんだ言おうともそう思わずには立ちゆかない人」もいる/そしてそれは案外に圧倒的に多い)にとって、この雑誌がどういう読まれ方をするのか、ということについても、興味深い。



・それにしたって「シェア」だ。ちょうど先週の『クローズアップ現代」で、大々的にクローズアップされていたように、今や、誰もが誰か、とても普通な感覚として「物を買うことが格好悪い」「物を沢山持っていることが格好悪い」と思っているような状況になりつつある(のかどうかのかわからない)ことを、基本的には面白く、また好ましいことだと思いつつも、と同時に、どのような好ましそうなことであれ、それがトレンディになるとき(今まさにその価値観が多くの人/過半数の人に共有されるかされないかの際どい分水嶺的な/スリリングな瞬間)には、それ相応の必然性があって、その必然性には色々な要素が/理由が/思惑が/先導が/無意識の意識が/あるのだと思うから、それはそれで気をつけて考えたい。そしてまた、本当にオシャレなことはつねに、少数のカナリア的なバランスの人の鳴き声(時に絶唱)から生まれてくるようにも思うのだから、今はまた個人的には「シェア」という事について考えると同時に、その「シェア」の先にある事や、関係や、色々な何かを考えて、想像したい。別に「シェア」という言葉を使う必要もない。



・トレンディなことは、ほとんど無意識に、身体的なことのように、むしろつねに身体的なこととして、自分の周りにある。例えば数年前まで「七部丈のズボン」と言えば、ショッピング・モールのゲーム・センターに集まる小学生のような中学生しか履いていないイメージだったのが、この2年くらいでそれは「クロップド・パンツ」とか呼ばれて、比較的洋服に興味があるような10代から、かつて『smart』を読んでいて今は『HUGE』と『2nd』の振れ幅の間にいるような、自分と同年代の人にまで「何となくお洒落っぽいズボン」として認識されている。そういうことをいつも/つねに面白いと思う、というこれは何の話だろう? しかし如何に七部丈の洋服なんて絶対に着たくないと思っていても、ある日突然「タックの入ったズボン」がどうしようもなくオシャレに思えてしまうようなことはある。そしてそういう「何かが突然光って見える」ことは、それはそれとして大切なことだと思いつつも、では「『何かが光る』ということ自体が格好悪くなる」ということもあったりなかったりするのか、と考えてみると、それはわからない。



・そこで「何かが光る」ことが、物ではなくて「行為」になった、と考えてみたのならば、それはそれで「今こそ」という感じもありつつも、それも部分的には昔から何となく感じていたような気がしないでもない。それこそ『smart』的な(ジェネレーションを特定する情報)、いわゆる「裏原宿」のようなカルチャーにおいても、もしかすると巻頭の著名人がアイテムを紹介するページを見て(テキストを読んで)「オシャレだなぁ」と溜息を漏らしていたのは、「アンダーカバーのTシャツ」とか「エイプのジャケット」とかの商品それ自体ではなくて「これJONIOくんから貰いました」とか「シーズンごとにNIGOくんから送られてきます」とかの、その物を手にするプロセスも含めた何か、というか、ある意味での「ストーリー」のようなこと、だったような気もしないでもない。だからそこには自分とは全く切り離されたある特定の「シェア」する「コミュニティ」があるように思えて、ほとんどの人はその様子をただ仰ぎ見るのみだった。そしてそれから10年以上が経ったのだとしたらどうだろう、というこれも何の話だろう?



・ここ最近、ほとんど無意識に、身体的なこととして、物を人に譲りたくて仕方がない。具体的には特に書籍。本をどんどん人に貸したい。あるいは物によっては差し上げたい。本を手にしたそばから「この本を自分以外の誰が読んだら良いのか」と考えている。回ってきたボールを的確にパスしたい。シュートを決めるのは自分でなくても全然、まったく、一向に構わないので、自分よりも深くその本を理解する人がいたのならば、その人の解説を聞きたい。「自分だけが何かを深く知っていること」の面白さや奥深さも、もちろん想像して、そのことに大きな意味を感じつつも、基本的には自分のまわりの人たちが、どんどん面白いことを考えてくれることの方が大切だし、しかも何というかそれは「結構急ぎの作業」のような気がしないでもないのだから、ああ早くと思いながら、今日も誰かに本を貸し付けている。そういう予感がある、というこれは何の話だろうか?と考えつつ、部屋の書籍を右から左に(物理的な意味で)動かす。