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  映像研究

日曜日は購入

 
・それでビルケンシュトックの靴を購入した。「モンタナ」という靴で、丸くて面白いかたちをしている。そういえば若い社会学者の人がTwitterで「自分に都合の良い検索ワード入れるとそれに応じたデータが出てくるのだからインターネットって本当に便利なものですね」という意味のストレートな皮肉をつぶやいていたけれども、それは本当のことかもしれない。「ビルケンシュトック 腰痛」「ビルケンシュトック 坐骨神経痛」で検索してみた。あるいは「ビルケンシュトック 矯正」とか「ビルケンシュトック 整体」とかでも検索してみた。ビルケンシュトックは腰痛や坐骨神経痛に効果があり、姿勢が矯正され、あるいは整体に通うよりもトータルで安いかもしれない。ちなみに「ニューバランス 腰痛」でも検索してみた。自分にとって都合の良いようなテキストを探す。


・しかし例えば電車に乗ったならば、人はそのような広告に取り囲まれるのかもしれない。「食べまくってやせよう」とか「片づけをしないできれいに」とか「コミュニケーションはしなくて良い」とか「会社を辞めて1億円」とか、そういう広告を見て、人は自分にとって都合が良さそうであればその本を購入するのだろうか。書かれた/印刷された/データになった文章を読むことで人は安心するのか。そこに書かれた事柄を確かなことだと思うのか。目の前で話している人の言葉よりも確かなことだと思うのか。


・それはさておきここ最近『談』という雑誌のバックナンバーを読んでいた。1997年に出た号で、特集は「音のからだ」。高橋悠治という人と永沢哲という人の対談や、細野晴臣という人と中沢新一という人の対談などが載っているので、それを読んでいた。あるいは大学の授業では東洋哲学について書いてある文章を毎週少しずつ読んでいる。認識することのモデルとしての「聞くこと」あるいは「きくこと」について毎週少しだけ考えている。「耳できくのではなく/心できくのではなく/気できくこと」というときの「気」とは何か?というようなことについて毎週少しだけ/少しずつ考えている。


・それもさておきビルケンシュトックの「モンタナ」という靴は29,400円だった。その代金を支払うことが自分にとって不思議な感じになる。5年半前の冬にダナーのブーツを50,000円くらいで購入した時に「ああ、もう自分は金輪際数万円もする靴なんて購入することはないのだろうなぁ」と思っていた。あるいは「次に数万円する靴を購入することがあるとしたら、それは冬山に行くための登山靴なのだろうなぁ」と思っていた。「その靴を購入するようなときにはもう自分はすっかり山の方角へ向かっているのだろうなぁ」と思っていた。しかし実際は違っていた。実際はおしゃれな靴だった。実際は腰痛に効果があることを期待して購入する靴だった。実際は都市生活を快適に過ごすための靴だった。実際は大抵想像とは違う。


・そして思わず物を買ってしまうような、物を買いたくなるような気持ちが、どこかからやってきた。継続的にやっぱり「おしゃれ」ということについて考えていて、おしゃれについて考えるということは「音のからだ」のようなことについて考えることと、物を買いたくなるような気持ちについて考えることが交差するような、そういうゾーンにあるのかもしれなかった。認識の系と社会の系について。そういえばようやくドゥルーズフーコー』を読み始めることもできて、いま電車の中とかでそれを読むことが面白い。