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  映像研究

真夜中の、春一番。サーヴィスについて。

 
・13日(金)は年に一度のサーヴィス業務の本領発揮。あるいは「サーヴィス度外視のサーヴィス業」としての任務を全うした夜なのでした。そしてすべてが終了した午後10時過ぎに職場を出たならば、うわっというかんじで完全に南よりの、湿った風が吹いてくる。そのことでテンションが上がって思わず飛び跳ねながら帰宅。暖房どころか部屋の窓を開け放したままで、びゅうびゅう吹く風の音(歌)を聴きながら「サーヴィス」について考えつつ、しかし完全にあっさりと眠りに落ちる週末の夜。フライデーナイトin高尾。


・翌14日(土)は一週間連続の業務も一段落の最終日、かつヴァレンタイン・デー。いわゆるひとつのチョコレート祭だ。同僚から「カカオの度数ごとにカード状になっているオシャレなチョコレート」を頂く。どうもありがとう。それにしたって「逆チョコ」ってなんだ?その完全にポストモダンな響きに耐えられない自分は、小学生の頃に夢見た80年代的ラブコメの世界観を未だに引きずっているのかもしれない。


・帰宅途中にブック・ファーストで『広告批評』を購入。「オバマの広告力」という特集は何ともグロテスクだと思うけれども(私見です)、いよいよ休刊というゴールに向けて地味に盛り上がりつつある(?)橋本治の「ああでもなくこうでもなく」は相当に面白かった。BRUTUSの特集なんて実際のところほとんどどうでも良くて、今なぜ「農業」について考えなければいけないかを、順序立てて書いているところが実にエキサイティングだった。そしてそれは他の様々な問題、例えば「派遣切り」みたいなこととも確かに関係しているのだろう。ちなみに今通勤の電車でゆっくりと(本当にゆっくりと)読み進めつつあるのは、ジョック・ヤングの『後期近代の眩暈』という本で、まだ四分の一も読んでいないなりに、サーヴィス業の「サーヴィス」の不可思議について考えさせられる内容だ。


・考えるべきことは今後色々とあるのだけれど(備忘録に相応しくとりあえず書くだけ書いておくならば)サーヴィス業としてのサーヴィスの純度を高めた結果として、最後に現れる「やれるだけのことをやります!」という精神のあり方から如何に(本当の意味で)自由になれるのか、ということを考えなければいけないのだろうな、と思う。あるいは「後期近代の眩暈」みたいなものの原因が「どこかで誰かが不当にお金儲けをしようとしている」ことにあるのでなく「システムが極端に合理的になってしまった」こと、更にアイロニカルに言うならば「人間が社会の中で生きることが巧くなりすぎてしまった」ことだとするならば、それは一体どうすれば良いのだろう?(答えは簡単には出ない。しかしだからといって、批判するべきものは何もないという立場にはならない。)とりあえず考える。


・他のことは巧くなんかならなくても「サーヴィス」だけは「巧く」なってしまう。それはほとんど避けられないことであるようにも思う。過去の経験からデータベースはどんどん作り上げられていくし、「やれるだけのこと」には「予測すること」だって含まれるのだから、可能なかぎりあらゆる未来の可能性が想定され、それに対応すべく現在の行動が決定される。そしてこれは、国とか企業とかではなく、等しくすべての人に課せられた「生存=サーヴィス業」の精神のあり方なのだということについて考える。


・その他、「i-morley」というpodcastのチャンネルで聴いた北山耕平という人のインタビューから、さっき手に入れた毎回楽しみな雑誌「オルタ」の「特集:恐慌前夜」まで。色々な人の色々な言葉から色々なことを考える。そのような色々な事柄を落ち着いたら整理したいと思う夜。


・あれこれ考える夜。ちなみに明日はきっと三寒四温の「温」の日曜日なのだから、山部のメンバーとともに水道橋の「さかいや」に出かける予定です。