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  映像研究

火曜日・水曜日・木曜日が過ぎて、遠くの時間へ向かう。

 
・5月24日の火曜日は家で一日作業。細々とやりたいことはあるものの、気になって昨日23日月曜日の文部科学省前のニュース映像などを色々見る。あっという間にアップロードされていた。色々な角度から映し出されるその場所の出来事を見てまた考える。映像が記録されて見られるということについても考える。そういえば昨日は文部科学省議員会館からの帰りに神保町の「路地と人」というスペースで開催されていた、イルコモンズという人の『アトミックラウンジ』という展示も観てきた。日本に原子力発電所ができた当時からのさまざまな資料、そして原子力に反対してきた発言としての書籍や音楽ソフトなどが並べられていた。それはひとつの文化だ。そんな文化は無かったらいいのにとも思うし、そのような文化があってもなお今現在「原子力発電所」が数多くあることを考えたならば、その文化は決して成果をあげられなかったじゃないか、と考える人もいるかもしれない。しかし自分にとっては、そのような文化を知ることには意味がある。だからその展示はどこか勇気づけられるものでもあった。確かに声をあげる人がいつづけているということ。


・映像で記録することについて考えていた。あるいは「情報」について最近あらためて考えていた。例えば「テレビを見る」ことは不特定多数の人のための情報を得ることで(マス・メディア)、一方「メールを送る」ことは、特定の知っている人に向けて話をするように情報を送ることで(コミュニケーション・メディア?)、しかしtwitter的なものに言葉を記したり、YOUTUBE的なものに動画をアレしたりするのは、共有しているスペースに情報を投げ込むこと(ソーシャル・メディア??)なのだから、それはまたそのふたつの中間に位置するようなことでありながら、まったく違うことなのだと思う。3月11日以降テレビで放送されている映像も、エンターテイメントとして「見る」ためのものではなくて、情報として「使う」ためのもののように感じられたと言っている人がいて、なるほどと思ったりした。もしもそれが本当だとして、しかもこれからもその状態が続くのならば、では「表現としての映像」はどうなるのか。『アンディ・ウォーホル・フィルム』という本のジョナス・メカスの文章を読んだりしつつ、そんなことも考えていた。



・5月25日の水曜日は昼から業務。微妙に微妙な雑務を済ませて夕方から清澄白河無人島プロダクションchim↑pomの『REAL TIMES』を観に行く。最終日ということもあってかなりの混雑。渋谷駅の岡本太郎の件もあって注目されているのだと思う。自分はその件に関しては特別に注意して見ていなかったのだし(普通くらいに気にしていた)、今回の展示に関してもそれほど興味を持ってなかったのだけれども、この数日で急に興味が出てきた。今のこの状況(3月11日以降に起こり/起こりつづけている色々な出来事)を記録するということが、自分にとってはあまり考えられなかったのだけれども、もしもそれをしている人がいるのならば、それがどのようなものなのか見てみたかったのだ。そしてまたこの期間、今の状況に対するアクションという意味での「発言」、そのような意味での「表現」を色々と見た(結果的に見ていた)自分にとって、また別の表現としての「美術」「芸術」は、どのようなことをしているのだろうと素朴に知りたかったのだ。


・それで観た。『明日の神話』の作品に関しては、事件以降に言われているようにグラフィティ的な格好良さがあるというか、元の岡本太郎の絵画との関係を含めてスマートな(賢い)作品だなぁと思ったのだけれども、それ以外のふたつの映像作品に関しては、それとはまったく違った感想を持った。ひとつの作品『REAL TIMES』に関しては(作品の意図はともかく)個人的には最近自分が考えていた「表現」ということを思いながら観ていた。今の状況にしっくりくる「表現」は、「何かをつくる」ことでも「何かを何かに見立てる」ことでも「何かのコンセプトを発想する」ことでもないのだと思う。今考えている「表現」は「ある人が/ある場所に/いること」という、ただそれだけのような気がするのだった。それは「移動すること」と言うこともできるかもしれないし、しかしそれだけではないような気もする。そしてもうひとつの作品『気合い100連発』については(作品の意図はともかく/これはもう本当に個人的に)「デモ」について考えたりもする。バラバラに/思い思いに/しかし集まって声を出すということについて考える。だからそれは良かった。


・しかしそれと同時にやっぱり何か微妙に微妙な気持ちもあって、それはきっと「美術」という制度の問題なのか。どうなのか。今のこの状況(3月11日以降に起こり/起こりつづけている色々な出来事)を美術作品の「題材」にしてしまえるということに、その「『作者』と『コンセプト』の関係の一貫性」のようなものに対して、逞しいなぁという気持ちもありつつ、野蛮なんじゃないかなぁという気持ちもありつつ、しかし結局は、やる人はやるんだよなぁという気持ちだ。きっとやれる人がやれるところでやれることをやっているのだと思う。



・5月26日の木曜日は今にも降り出しそうな天気。そのような天候のもと読書。昨日の帰りに本屋で見つけてつい購入してしまった大澤真幸という人の『社会は絶えず夢を見ている』をずっと読んでいた。題名が良かったからつい購入してしまった。そういえば大澤真幸という人の本を久しぶりに読んでいる。一昔前(ってどれくらいだろう?)には『恋愛の不可能性』という縁起でもない題名の本とか『性愛と資本主義』という身も蓋もない題名の本とかを自分としては熱心に読んでいたのだった。それはもちろんまだ00年代のことで、しかもどちらかと言えば20世紀に近いくらいのことで、だからもちろん「リーマンブラザーズ」とか「資本主義の破綻」とか「ソーシャル・ネットワーク」とか、そういうものがまだない世界のことだった。あるいはどこかで誰かはそのようなことを(ずっと)考えていたのかもしれないですけれども。


・夕方から出かけて吉祥寺へ。月曜日に続きSMDくんとRくんと、そして久しぶりにゆっくり話をするHKTくんと4人で飲食。そういえばこのようなメンバーで毎日のように飲食しつつ色々と話をしていたのが00年代の大澤真幸時代(?)なのだったなと思う。広告の仕事をしているHKTの話は興味深く、またタイムリーであるところの『REAL TIMES』や「熊本の新政府」の話題など。今の状況に対する直接的なアクションと同時に、中長期的な「反応としての『表現』」に移行していく、ちょうどその境目に今この5月後半があるのかもしれない。時間は流れる。もちろん悪い出来事は起こりつづけているし、それに対して直接的なアクションは必要である。しかし、であるからこそ、遠くの時間や場所を想像することもしたい。そしてまた遠くの時間や場所から「今のこの場所」を見ることを想像したい。そして何もしなくても「遠くの時間」はやってくるのだから、「遠くの場所」へは自分で行かなければいけない。移動することもしたい。