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  映像研究

楽しいと、必要と、意味があると、面白いと、あと何か

 
・先週職場で業務をしているときにふと同僚が口にした言葉でずっと気になっている事は「『楽しい』と言うことによって他者を排除することがあり得るのではないでしょうか」というような意味のことで、それを聞いて自分は「はっ」とか「なるほど」とか「そうかも」とか思いながら色々なことを考える。あるいはその言葉を話した人が伝えようとしたこととは少し違った解釈かもしれないけれども、確かにそのようなことはあるような気がする今日この頃なのだから、例えばこのような備忘録においてもかなりの高打率で語尾?文末?結論?は「楽しい」と記したりもする自分でもあるのだから、その言葉から考えられることは多いような気がした。


・それで今週になって再びその話になったときに、その人が想定していたのは「作品を作る人が作品を作る根拠として『楽しい』ということを挙げた途端に批評の仕様がなくなる」というようなことが、まずひとつとして想定されていたようで、それに対して自分は「確かにその通りだと思えるなぁ」と考える一方でしかし、では例えばそれが、その根拠が(それは「作品」でなく広く「表現」でも良いと思うのだけれども)「楽しい」ではなくて「必要」であったならばどうだろうか?というようなことで、それは例えばある種類の「表現」をする上での根拠として「この表現は自分にとって必要だったのです」ということが挙げられるような場面があるように思えるのだけれども、そのときに、その、それはどうなのだろうというようなことも含む。


・何となく「面白い」よりも「必要」の方が(それは「必要」なのだから)何かの位が二段階くらい上のように思ってしまいそうになる一方でしかし、その言葉が、その根拠としての言葉が「他者を排除する」ものとして機能することに問題があるのではないか?(良くないのではないか?)というようなことを問題として設定するのならばしかし、それはほとんど同じ意味である、とも考えることができる。


・という、このような問題のような問題なのかどうかわからないような考えを巡りながら、いつも巡りながらこれまで自分が考えてきたことは(というのは、多分そのような問題の設定に対して別の考えを示すために提示してみたいと思うことは)「そこで『他者』と言われている人は誰なのか」という返答です。「楽しい」と言うことによって、あるいは「必要である」と言うことによって、排除される(かもしれない)「他者」とは誰なのか。「誰なのか」っていうのもあれだけれども、でも例えば誰なのか。そしてその「誰か」は本当に「排除」されているのか。「排除」されているのならば、それはどのようなニュアンスで機能しているのか。(途中)