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  映像研究

夏のはじまりの備忘録(当てずっぽう、あるいは仮説について)

 
・はじまった。季節としての夏は既に誰がどう考えてもはじまっているが(梅雨が明ける・猛暑日になる・台風が来る・ジブリ映画が上映される・小中学生が夏休みに入る…etc)、自分の季節的な労働がはじまったならば、そのことを合図にして完全に夏だ。嵐のように暑い時間が倒されていくのだろう。それが楽しみでないはずがない。同時にそれを恐れないはずがない。役者になったことがないので完全に適当だけれども、いつもイメージするのは「舞台の公演中」だ。そのような日々がはじまる。汗を沢山かいて水を沢山飲もう。



・乾いた地面が水を吸うように本を読んでいる。少し前に「本当の意味での読書あるいは学びは、心底困っている状況にしか訪れないのではないか」と備忘録したことを覚えている程度に、今自分は何かに困っているのか。どうなのか。どんどん文章を読んでどんどん「わかった気になっている」。「わかった気になっている」ことはわかっていて、しかしだけどそれが本当にわかっているのかどうかは謎だが、そのような「ほんとう」は本当に大した問題ではなくて(多分)、それで「読めるときに・読める本を・読みたいだけ・読めば」良いのだと思う。今日はちょうどベルクソンという人について書かれた『未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学』という本を読んでいた。



・それは写真について考えたことがきっかけだった。ある時職場の後輩に現代的な写真家の作品を色々見せてもらった中で、どうにも気になった写真家に「Roe Ethridge」という人や「Hanneh Whitakar」という人などがいて、超ざっくり言うと「『スタイル』を相対化するように次々にイメージが現れるような種類の写真(モチーフの一貫性のなさ・セットアップされているか/スナップかも様々・画像としての印象/解像度なども統一感がない)」だと思うのだけれども、そのような写真作品は、ではどのような原理から生まれているのだろう?これは完全に勘だけど、それは何か「倫理のようなもの」に動機づけられているのではなかろうか?というのが今の自分の興味だ。そしてそのようなことを考えながら、別の表現、例えば言葉や身体表現についても考えてみたならば、同じような印象の表現というものがある。そのような表現について考えている。



・例えば「蝋人形をまるで生きているように写す」とか「風景をまるでジオラマのように写す」とか(ちなみに「まるで…のように写す」ことはまるで関係けれども)の、何かのコンセプトに合致したサンプルを集めるようなタイプの表現(それがつまり「スタイル」なのか)とは、多分かなり違った原理によって制作されている作品というものがある。そしてそのことがわかりやすい表現として例えば写真について考えている。例えば「Aがある」ことから、次に「Bが置かれる」ことから、次に「Cが置かれる」ことから…という、切断されている感覚と、同時に接続されている感覚がある、その感覚は何なのだろうと考えている。全体を俯瞰せずにただ直前の事柄を引き受けて表現をするという方法とは何か……と考えていてしかし未だまったく模索中だ。



・そして模索中なりに、その感覚に関して考えていて、主に「その感覚が『倫理』に根ざしている」という仮説を実証できるような考えが書いてあるような書籍はないだろうかと探してみた結果が、差し当たって「ドゥルーズ」という人と「ベルクソン」という人について書かれた本だった。そしてしかもそのことは「植物がいきいきと成長しているのを見るとなぜ気持ちが良いのか」という問題とも繋がっている(私見です)と思ってしまったのだから、そうなってくるとこれは、この数年のライフ・ワーク的な事柄としての「人は何故(必要に迫られていないのに)山に登ったりするのか」とか「人は何故(必要に迫られていないのに)種を蒔いたりするのか」という問題すら無関係ではない(私見です)と思ってしまったのだから、読む。何かを「思ってしまった」場合は、とりあえず読めそうな本を読むしかない。しかし試しに「ドゥルーズ 農業」とかで検索したけれども、誰も何も言ってないので、それは思い過ごしかもしれない。いずれにしてもとりあえず継続して考えるし、「継続して考える」ということも、その問題自体だ。



・昨日偶然古い方のハードディスクをコンピュータに接続してみたならば、当然のことながら古いデータが色々とあって、それはほとんどこの10年くらいの自分がやった仕事、とか制作した作品についての何か、とかそういった各種データが現れたならば、その「ある意味での一貫性のなさ」と「ある意味での一貫性」に、あくまでも個人的に、自分のこととして震えた。それが素晴らしそうとか、交換価値がどうだとか、そういったこととはまったく関係がなく、ただ自分にとっては意味がなくもない。厳密に言えば「その地点では意味があったもの」ということなのだと思う。自分は普段ほとんど過去の何かを見返したりすることはないのだったから、からこそ、しかも上記のような事柄との繋がりで、方法としての「継続」について考えたりもしていたのだから、暑くてぼやーっとした頭が尚更ぼやーっとした、ということです。



・ある時「&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&」と書いてみた。それは完全に当てずっぽうだったけれども、その当てずっぽうを「仮説」と読み替えて、今、そのことすら考える。あるいはずっと考えていた。それはきっとひとつの方法で、俯瞰はしないのだが、しかし俯瞰したって構わないし、その俯瞰や、あるいは何かを統合しようとか、自分を解釈しようとか、そういう意識すら、あくまでも「部分」であるので、だから記してはいけないことは何もないという意味において、それはある範囲の中で「自由であること」を確認したかったのかもしれない。あるいは弄びたかったのかもしれない。



・自分はどうしてもほとんどの「物語」という形式が好きではないけれども、それは「はじまり」があって「終わり」があって、その2つの地点の違いについて、何か意味があったりすることが耐えられない(というと大袈裟だけれども/「ぽかん」としてしまう)ということなのだし、それは「原因」があって「結果」があるという、その単純さに耐えられない(というと大袈裟だけれども/飽きてしまう/呆れてしまう)ということなのかもしれない。例えばAとBを接続するときに「なぜなら」という接続詞を使わない。AもBもCも、出来事は「そして」で繋がれているイメージがある。ある出来事がある・そして・ある物を見る・そして・ある人に出会う・そして・ある物に触れる・そして……そして……、その繋がりだけが、自分にとっては唯一の確かなことなのだという感覚があるのだから、それはやっぱり自分にとっての「リアリティを表すための」方法なのかもとか、あらためて考えたりもする。



「&」でも「そして」でもよいけど、その「やんわりした肯定」によって、あるいは「面白がること」によって(続きをもっと聞かせて!)、別の新しい事柄が現れたならば、それよりも良いことが何なのかわからない。そして、新しいことが現れつづけるのならば、それよりも良いことはないような気がする。そしてその「良いこと」を成り立たせている原理(リズム)を知りたいと思いながら、そしてその「良いこと」が「良いイメージ」というだけでなくて、現実の社会(というと大袈裟だけれども/現実に生活していること)に対して、実際に「良い何か」として、機能する可能性があるのか、ないのか、あるといいなぁ、きっとあるんじゃないかなぁ、というようなことについて今大体考えていて、今大体考えているのだから、その事がこの夏の自由研究だということになった。