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  映像研究

先人たちの言葉・できる人・あなたの希望

 
・適当に読んだり聞いたりしている。時間の許す限り色々なものを読んだり聞いたりしたいと思うが、そのほとんどは今までも何度も読んだり聞いたりしてきたものである。今まで何度も読んだり聞いたりしてきたものを「今この状況」で読んだり聞いたりしてみるとどうだろうかと試すように読んだり聞いたりする。例えばそれは自分の場合は「健二」と「悠治」についてだ。40代の健二と70代の悠治の仕事から考えられることは沢山ある。ふたりとも偶然にも「音楽の人」であり「たたかいの人」だ。そして「ことばの人」でもある。それぞれが記した「たたかい」について。あるいはその記し方について。伝えることを伝えるときに、その伝える内容と方法とが繋がり合っていることについて。「うさぎ!」と「水牛」に共通する何かがあるような気がしたら、それはやはり「人びとのたたかいの記録」であるということで、しかもそれはアカデミズムの言葉ではなくて、生活の細部の描写であるということ。


・しかし同時にこの期間ずっと考えていたのは「今は年長の人の考えと自分の考えを照らし合わせながら何かを考えることにはあまり意味がないな」ということで、というのは普段は完全に自分はそう(照らし合わせながら考える)なのだけれども、今はあまり照らし合わせながら考えない。ひとりで考える。あるいは、目の前の出来事について、横で一緒に見ている人と話したりすることから考える。そしてまたその考えを伝え合う。いま原子力発電所のことについて、放射能のことについて、それを完全に自分と関係があることとして考えるのは自分が「約30歳」であるからだと思う。そして同時にいわゆる「被災地」の復興について普通に「行こうかな」と思うことも、やっぱり自分が「約30歳」であるからだと思う。「カルチャー」とかとは特に関係がなく世代のことを考える。責任感のようなきちんとした気持ちはなくとも(ない…だろうなぁ)非常に単純に自分は「できる人が/できるときに/できることを/やる」という発想が、いつでも/どこでも大切だと思うから、そう考えたときに今の自分は「できる人」っぽいと思う。この場合の「できる」と「(何かの)能力がある」は全く関係がないことを一応記しておいた上で。そしてそのような発想と「年長の人の考えと自分の考えを照らし合わせながら何かを考えることにはあまり意味がない」と考えることには関係があると思うのだけれども、わからない。とりあえず「適当」に読んだり聞いたりしている。



・そしてすべての活動はあらゆる意味で長期戦だ。原子力発電所の是非に対して「こういうメディアが調べたならばこういう割合で賛成と…反対が…」という情報に一喜一憂するのはやめようと思う。もちろんそのようないわゆる「世論」も全く意味がないとは思わないけれども、しかしこの数日考えているのはちょっと違ったことなのであって、それは言葉の使い方と社会に対する意識の問題だ。原子力発電所に対して(ひとつの例としての)自分は「無い方が良い」「無くすためにはどうしたら良いのか」「無くすために自分にできることをしたい」と考えるし、また他の人にも(ときにやんわりと)話すだろうけれども、一方また別の人(これは実際に数日前に知人の人の言った言葉としての例ですけれども)はこのように言うかもしれない。「日本は変わらないと思いますよ」。そう言われたならば一瞬「?」と思って、自分の意識からチャンネルが変わる。レイヤーが変わる。次元が変わる。「日本は/変わらない/と思いますよ」の短い言葉を細かくセンテンスに分けて、それぞれの細部に宿る意識を想像してみたりした方が良いのか。人との会話はいつだって明確な問いに対する回答ではないけれどもしかし、このような(他の誰かも口にするような気がするような)言葉は、どのような問いを想定して発せられているのか、という想像力をはたらかせてみる。


・適切な問いについて考える。この場合私は「あなたの『考え』」を、そして「あなたの『希望』」を聞きたいのだとしたら、その場合の適切な問いとは何か。いきなり「あなたは原子力発電所をどうしたいですか?」と質問したならばちょっと面白いニュアンスになってしまう。では「あなたは原子力発電所はどうしたらいいと思いますか?」ではどうでしょう。あるいは「あなたはエネルギーはどうなったらいいと思いますか?」というのも良いかもしれない。このような質問が自然に問われたならば「日本は変わらないと思いますよ」が全く意味のない言葉であるということがはっきりするだろう。全く意味のない言葉。無意識の批評性は空気を読むことだけが目的で、しかも質の悪いことにその言葉が本当に空気を作り出す。その言葉を聞いたならば、質問と回答が存在していないことに気持ち悪い感じだけを持ったまま押し黙るしかない。


・そういう意味のない言葉、希望を語らない/想像すらしない形式で考えることによって、決して希望を宿らせることのできない言葉がある。それが言葉の使い方の問題と社会に対する意識の問題だ。好むと好まざるとに関わらず自分が所属している「ある社会」について考えたい。そして意見したい。そして考えるときにはまず理想から考えたい。希望から考えたい。ある対象を「批評」した結果、現状を追認するしかない、という思考法が、物凄く特殊な思考の一形式であるということに気がついてもらいたい。そのような距離の取り方を、前提を、疑ってみて欲しい。そして本当は批評とはそういうものではないのだろうとも思う。高橋悠治という人が(もうたぶん100回くらい見てる)某脳科学者とのトーク・セッションで「論理」(Aか/Aでないか)や「定義」(過去を記述すること)を疑ってみると言っていたことだって、今目の前のことを考えるきっかけになる。「希望」の言葉は「望み」とともにあると思う。


・そんなことを考えながら、しかしそれはもちろん今自分がこの場所でできる方法であり道筋だ。別の場所、つまり「たたかい」の場所ではほとんど希望が見えない、感じられないということもある。そして何をどう想像しようとしても自分には想像しきれない事柄がある。というそれはさっき見た21日の「福島の子どもたちを放射能から守れ」という会合で、USTREAMもされていたらしいそれはもはやシンポジウムとかそういった楽しげな雰囲気が入り込む余地のない「放射線被ばく基準に関する対政府交渉」なのだった。このやり取りに「希望」という言葉はしっくりこない。しかしだからそこには「望み」があるのだった。「望み」を掲げ、発し、一歩前に出ることを、その姿勢を「たたかい」と言うのか。どうなのか。「たたかい」に対してコメントすることなどできない。だからただ見る。



福島の子どもたちを放射能から守れ:前半


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