&

  映像研究

歴史の時間

映画『ANPO』上映&ゲスト・トーク
"ちょっと待ってヨ「日米同盟」だって?!あなたも私も穏やかに暮らせる世界をつくるために"
日時:3月18日(金)18:30開場/ 19:00上映、トーク20:40〜21:40
出演:リンダ・ホーグランド (プロデューサー・監督)
イルコモンズ(小田マサノリ)(文化人類学者/元現代美術家/アクテイビスト)
※予定していた湯浅一郎氏の出演は事情によりなくなりました。


『ANPO
(アメリカ・日本/89分/2010年/カラー/video/16:9)
監督:プロデューサー:リンダ・ホーグランド
撮影:山崎裕/編集:スコット・バージェス/音楽:武石聡、永井晶子 
出演:会田誠朝倉摂池田龍雄石内都、石川真生、嬉野京子、風間サチコ、桂川寛加藤登紀子串田和美東松照明、富沢幸男、中村宏、比嘉豊光、細江英公、山城知佳子、横尾忠則
配給・宣伝:アップリンク


・「このタイミングで上映とトークをすることに意味がある」というような内容のことが17日の夜にタイムラインに流れてきた。それを読んですっかり忘れていた上記のイベントのことを思いだす。スケジュール帳にも書いていた。直感的に「ああ、これは行った方がよい場所だ」と思って予約。開催までの経緯がこちらに出ていた。なるほど。やはり行かなくてはいけない。正直言ってほぼ丸まる一週間電車で都心に出かけていないのだ。余震もある。計画停電や突然の停電もあるかもしれない。そして何より福島の原発は気になって仕方がない。そういうことを考えて初めて「普通に」出勤し、労働を始めた人たちの「普通ではない」状況を思う。そしてだから、自分は自分に出来ることとして、この映画を観に行く。


・それで行った。暗い劇場の中で映画を観て、その後トークを聞く。映画は「60年安保」に対して、主にそれに反対した立場の、主に「アーティスト」と呼ばれる人たちの当時の証言、あるいは当時を知らない人にとっての「安保」とそれによって今も続いているこの社会についての考えが淡々と語られていく。当時の映像なども含まれているので資料的な要素もあるが、語りを丁寧に写しているので、ある特別な緊張感のようなものがある、普通に良いドキュメンタリー映画だった。


・しかし、当然というかなんというか、今、このタイミングで(3.11以後の、東京で)観たならば、恐らくはそれ以前に観るのとは全然違ったことを考える。(自分は初見だが、上映後のトークで3回観ているという人がそのようなことを感想として述べていた)色々なことが対応している、対応していると思えてしまう、ということは、本当に自分のこの状況ならでは冷静ならざる心理状態がそうさせるものだとは思いつつも、まったくの妄想だと思うこともできない。対応することを整理した考えが「仮説」になる。




・それは「太平洋戦争が終わった後、こんなにも色々な場所が壊れ、色々なシステムが機能しなくなったのは初めてなのではないか」という思いつきから始まる。地震それ自体は「天災」である。しかし「原子力発電所の災害」は完全に「人災」である。そしてその「人災」の「人」は特定の誰かではないだろうと思う。原子力発電への政策を進めてきた政府、そしてその政府を選んでしまった、もちろん自分も含めた人々、つまりすべてのこの国の人に責任(という言葉は使いたくないけれども、控えめに言っても「関係」)があるだろう。そしてそれは「(結果的な)国としての判断」であると同時に、原子力発電所を置かなければいけないような「グローバルなシステムの問題」があるのだと思う。地球環境よりも市場経済の利潤、効率を優先させるシステム。「対案はない」と思わされるシステム。


・そうして今「太平洋戦争」のことを考えてみる。知る限りの断片的な事柄から自分なりに解釈してみたならば、そこには共通する部分があるのではないか。「戦争」が「人災」であるとして、その「人」もまた、特定の誰かではない。それを支持した人を含めたすべての人であり、(結果的には)国である。そうしてまた「戦争」は「戦争をしないとやっていけない」というグローバルなシステムが背景にあるだろう。もちろん「太平洋戦争」でこの国が判断したことはあまりにも酷く、そして同様にそれぞれの国が判断したこともあまりにも酷い。しかしその国々が、ひとつのシステムの中で活動しているのならば、考えるべきはその「システム」についてであるだろう。


・もちろん、大前提として、当たり前だけれども「これは戦争ではない」。そういう言葉の使い方が好きではないということもある。ちなみに「○○戦争」という比喩も好きではない(受験戦争、とか/話の流れ上使ったことはあるかもしれないですけれども)。そうではなくて、しかしながら「戦争」を作り出したのと同じシステムが「原子力発電所」を地球のあちらこちらに作っているのは、それはかなり明確なことなのではないか。そのシステムを例えば小沢健二という人ならば「灰色」と名指すかもしれないし、別の人は別の人なりの名称を与えるのだろう。いずれにしても、そのようなシステムは、65年前も、もしかしたら数百年前も、そして今も、そのようになっている。そのことを考える。




・それでイベントのトークでは色々なことが(断片的ではあるものの/それは時間の都合だから仕方がない/次回があるかもしれないと言っていた/もしもそのとき東京にいたならば必ずや行きたいと思う)話された。例えばこのような特殊な状況における「情報の受け取りかた」について。「WNYC」「アルジャジーラ」「NHKラジオ」の特性について。自分も普段まるでテレヴィジョンを見ないなりに、今起こっている出来事について、自分なりに工夫しながら、マス・メディア(あるいはマスではないメディア)から情報を得ようとしているのだから、その話題は今まさに考えるべきことだった。


・あるいはまた「この災害における米軍の動きかた」や「アラブ革命におけるメディアの働き」や「TPPについての質問」や「この状況における都知事選」についてなど、本来ならばひとつずつ掘り下げて(ひとつずつ一晩くらい)聞いたり話したりしたいトピックスが挙げられる。それらについて、ひとつひとつが詳しく話せないことは残念ではあるものの、しかしまた、それらについて、自分も(ぼやっとだとしても)考えていたようなことを、他の誰かも考えていた、ということが、何よりも収穫だった。今起こっていることに、途方に暮れ、あるいは怒り、そしてその気持ちを覚えていることが大切であるのと並行しながら、その先のことを考えたい。様々な意味で今よりも良くなることを考えたい。




・それで仮説の向こう側にある、未来には、やはり差し当たっての「TPP」があるのだ、とどうしても自分は考えてしまうのだ。システムを背景とした「人災」の後には、そのシステムをやんわりと存続させるかたちで、国同士の手続きが行なわれる。それが「戦争」に対する「安保」だったのだろう。今、具体的な「場所」を、人や、動物や、植物や、菌類や、色々な生命を支え、つなげる「土」を軽視したシステムを存続させる手続きを、どこかで、誰が考えているのではないか?「原子力発電所の大災害」に対して「TPP」がなし崩し的に決められてしまう、というのは、思い過ごしなのか? 思い過ごしであればいい。思い過ごしでないなら、そういう動きを止めるために何かをしたい。