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  映像研究

いまこのときも、原子力発電所が作られようとしている場所へ行く:1

 
・3月22日の火曜日。広島行きの高速バスを「西条駅」というところで下車。降りたならば山部部長Tくんがピース・マークに似たエンブレムのついたコンパクト・カーで迎えにきてくれた。そうしてWちゃんの親戚の家へ移動。友達の実家(ではないけれども)にお邪魔するのは少しばかり緊張。おにぎりをいっぱい作ってもらっていた。それらを持って午前6時半に山口方面に出発。Tくん&Wちゃん&Wちゃんの妹&自分、の4人での旅行。いつだって突然の旅行は思いもよらないメンバーで思いもよらない場所に行くことになる。しかし今回の旅行は、それともまた少し違った意味があるのだった。


・スムーズに高速道路を西へ。広島県から山口県へ。1時間ほど走り「玖珂(くが)」というICで降りて国道を1時間ほど。周囲が海で囲まれてきたならばそこは「上関町」と呼ばれる場所だった。「#kaminoseki」の、「モラトリアム・カミノセキ」の、そしてだからつまり「上関原発」の上関町。文字として読んでいた、映像として見ていた、叫ばれる声として聞いていた「上関」に今自分がいるということ。とりあえず今日は上関町の本島の(?)中心部分は通り過ぎて突端のフェリー乗り場「四代(しだい)」へ向かう。ブランチ的におにぎりを食べながらフェリーを待って、そうして可愛らしいフェリーに乗ること20分ほど。降り立ったのが「祝島」である。


・「祝島」に来たかった。単純に「素敵な場所のようだ」と思ったからということももちろんあるのだけれども、『ミツバチの羽音と地球の回転』を観た自分にとっては「上関原発」について考える上で、やっぱり「祝島」にも行かなければいけないだろうと思ったのだった。そしてそれは今このときにも「福島第一原子力発電所」が「非常に深刻な状態」になっている状況ならば、よりそのように思う。あらためて詳細な地図を見てみれば上関原発を建設しようとしている「田ノ浦(たのうら)」は、まっすぐに祝島の方を向いている。そうして田ノ浦を中心とした半径7.7kmの中には島全体がすっぽりと収まってしまうのだった。そんな場所は他にはない。そのことを知ったときにあらためてくらくらっとしてしまう。現在福島では「半径20kmの人は外側に移動してください」「半径30kmの人はなるべく外に出ないでください」とインフォメーションしているのだ。その数字が適切な距離なのかに関して、異なった考えを持っている人がいるということは、それはまた別のこととしても、しかし少なくとも「半径20kmは事故が起こったときに完全に危険」だということは、はっきりとしている。


・そして祝島は島なのだった。島は島なのであるから船がなければ外に移動することはできないが、もしも仮に大きな事故が起こったならば(地震が原因であるよう場合はなおさら)船が動かない可能性だってあり得る。そのことから考えられる、考えるというか、今ニュースで映し出される映像がイマジネーションにオーバーラップするのは「完全防護服の自衛隊員がヘリコプターで着の身着のままの島の住民のひとたちをばんばん運ぶ」という、完全にどうしようもない状況で、そしてそのイマジネーションをこのように記したならば、それは「不安をあおる」とか「事故に乗っかって原子力発電所の悪口を言っている」ということになるのかどうかは、知りませんけれども、しかし島に住んでいる人ならば普通に想像するのではないかと思う。映像は毎日流れるし、原子力発電所は毎日(震災後も何らかの)作業を続ける。想像をしない人もいるかもしれないけれども、想像をするのに適当な材料は揃っている。なによりいつも「人は想像をする」。


・そのようなことを考えた、きっかけのひとつには一冊の書籍がある。港の前の数店あるうちのひとつの商店でパンや果物などを購入したときに一緒に手にした『<2時間でわかる 原発の危険性のおはなし> 小出裕章講演録 「原発計画30km県内の光市民として」』という500円の冊子を手にして読んでみたことから考えたことは多く、これは奇跡的なほどコンパクトにわかりやすく原子力発電所についての問題点をまとめてある冊子だった。子どもから大人まで、あるいは高齢の方からクリエイティヴなエグゼクティヴまで(はどうだかわかりませんけれども)読んだならば「ああ、なるほど…じゃあ、ダメだね」と、思うかどうかはわからないけれども、とにかく読みやすく、わかりやすい。僕ら4人でも2冊購入して回し読む。


・そうして夜はそれらを踏まえて4人で色々な話をする。4人とももちろん色々な考えに違いはあるけれども、共通する部分もある。「今回の『震災』は『天災』であるけれども、今回の『原発事故』は『人災』である」という理解と、そしてだからこそ、原子力発電所に対して、まったくそれに賛成することが出来ない、という考えについては共有していたのだと思う。だから話は自然と「では、どうしたら『原子力発電所』がない社会になるのだろうか」ということになる。専門家でもなければ、社会的に発言することを求められているわけでもない4人が普通に考えることは、まったくの普通の疑問を重ねたり、ぶつけたり、あるいは対案を提案してみたりすることだけだけども、しかし同時に今一番大切なことは、そのような「普通の人(ってなんだ?)」が普通に、普通なこととして「怖い仕組みで動いているのだなぁ。より安全な仕組みはないのだろうか」と考えたり、「発電は原子力じゃなくてもよいような気がしますけれどもね」と隣の人に言ってみたり、することなのだと思う。


・しかしながらたまたまそこにいた4人以外の「もの凄く多くの人々」のうちの「かなりの多くの人々」は、必ずしもそのようには思っていないかもしれないのだった。ソースが不確かなので微妙な記述になってしまうけれども、数日前にニュースで見たところによれば、今回の原子力発電所の事故(人災)があってもなお、今後も原子力発電所を使うかどうか、というような質問に半数以上の人が賛成をしていた、という記事があった。自分はそれを知ったときにははっきり言って、あらゆる意味で、この国だか社会だかは「絶望的」だと思ってしまったが、しかし半数かどうかはわからないけれども、そのようなメンタリティーというものはきっと、あるのだろう。本当に本当に信じたくもないことだけれども。


・そうしてだから4人で話していたときに議題(?しゃべり場みたいだ)になったのは「なぜ自分が明らかに不利益を被っている事柄に関して反対をしない(人が少なからずいる)のか?」という疑問に対して、その理由を推測するかたちになり、そう考えてみると、いつかどこかで、そのような「反対」とも「賛成」ともつかないのだが、結果的にそれは「黙認」「追従」ということになってしまっている人の「意見(なのかどうかはわからないけど/と言ってしまうのも失礼だけれども)」を聞いたことがあるような気がする。それは「恥ずかしいから」なのでしょうか。「もてなくなりそうだから」ということもあるような気がする。そりゃ「もてない」のはみんな嫌だろう(広い意味で)。しかしだからって黙っているからといってもてるわけでもないし(そういう人もいる)、とか考えているうちに、話が完全に逸れそうになってしまった。引き続き考える。