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  映像研究

東京

 
・3月21日(月・祝)は、朝から荷造り。数日の旅行に必要そうなあれやこれやをアークテリクスの55Lのザックに詰める。そしていつかそうしたように、ザックに詰めたものどもを、全部並べて(アウトドア・ムックのバック・パッキング特集のように)写真に撮ってみようかと一瞬思ったけれども、色々な意味で余裕がないのでやめた。時間がなかったのだ。そうして外出したならば、ランチには某小金井のカレー店にてパーフェクトなカレーを食す。今までとまったく変わらない美味しいカレーがそこにあった。


地震以来ちょうど10日ぶりとなる職場へ行き、業務を行なう。タイム・カードを押すときに3月11日の「帰った時間」が印字されていなかった、というような、とてもとても些細な事柄の集合が自分にとっての3月11日だった。そしてしかしその3月11日の午後3時少し前にしていたのとまったく同じ作業を、まったく同じ場所で行なったならば、そのことによって、多少なりとも「揺れ」の感覚を思いだす。そしてその「揺れ」はやはり些細な事柄ではなかったとも思う。「最も被害が大きかった地域と比較したならば」という言い回しをさておいたならば、やはりそれは、自分にはまったく予想も出来なかった「揺れ」だったのだと思う。


・そして職場のフロアの蛍光灯は半分ほどしか点灯していない。そういう10日間が過ぎた。そして、しかし、というかなんと言うか、結局、今準備している春の業務は、やはり27日から予定通り行なうのだということが今日わかり、軽く脱力する。あるいは緊張する。それに関して個人的には相当に疑問があるが、ひょっとすると自分は今東京においては「被災地ではないのに、色々なことを心配しすぎている人」ということになっているのかもしれない。あるいはなっていないのかもしれない。しかしそんな「〜〜の人になる」という発想自体が考えることを難しくしているのかもしれない。そうしてそのようなことが「わからない」ということも、今東京をある一定の期間離れてみることの理由になるのではないかというのが現状の自分の理解だ。


・夕方から高速バスまでの時間に渋谷のアップリンクにて『レイチェル・カーソンの感性の森』を鑑賞。テレヴィジョンでもUSTREAMでもない映像を出来るだけ観たい今日この頃。しかし正直に記すならば少し眠る。帰りにセンター街の某大型古書チェーン店で『沈黙の春』を購入。これもまた読みたい本。鞄の中には他に、岩波ジュニア新書の『原発を考える50話』など。何かを学ぶために移動するが、同時に、移動しながらも学ぶことが出来るかもしれない。書籍は素晴らしい。そして午後8時のバスに乗って、まずは広島に向かう。