&

  映像研究

備忘録・近況報告・詩

 
・今は3月13日の朝。完全に完全な日常から、次々に、色々と、様々な出来事があって、そして早くもそろそろ丸2日が経とうとしている。この期間、とにかく慌てたり、少し落ち着いたり、つぶやいたりRTしたり充電したりしている。それで今は記録のための備忘録を記そうかと思いつつ、それは幾らかの人への近況報告でありつつ、しかし同時にその文章が自分のための「何か」になってしまうならば、それは「大きな出来事の後で詩を書くことは野蛮である」というような感覚に接触するような、しないような、でも、しかし、それは関係ないかもしれないし、隣に置いておく。



・3月11日の記録。新宿の職場本館の7階で「画用紙を透明なフィルムで包む作業中」に地震。生まれて初めての大きな揺れ。8階の教室を確認後、ダウンジャケットと財布だけを持って階段で建物の外へ。事務の人の誘導に従って裏のお寺の境内に。直後の余震が続き1時間ほど状況をつかむのが大変。twitterにて震源地、そして最も被害が大きいのは東京ではないということがわかり事態の大きさが初めて分かる。余震の合間をぬって一瞬7階に戻って鞄を持って、他3人と近くの新宿御苑に移動。夕方にさしかかりつつあったのでとりあえずレストハウスに座れる場所を確保。しばらく待機。twitter以外情報なし。実家の3人と連絡。職場の建物の1階に戻る。帰れなさそうな人20〜30人。事務LANを借りてmacbookNHKUSTREAMにつなぐ。しばらく情報収集。JRが動きそうもないことがわかり駅前に様子を見に行く。コンビニで食料が売れる。ビックカメラで充電器を求める人。マツキヨはホッカイロなどを推薦。ABCマートでスニーカーが売れまくってたのが象徴的。ヒールを脱いでスニーカーに履き替える。そうしてみんな青梅街道や甲州街道明治通りを歩くのだ。人は歩く。


・3月12日午前の記録。引き続き職場の事務フロアにて。日付が変わる前後に、地下鉄や私鉄が動き始めた情報を得て帰れる人は帰る。お菓子など食べつつ引き続き情報収集。各地の火災についての断片的な情報。事態はどんどん大きくなる。余震。電車の運行状況はtwitter。午前4時前後に新潟長野で地震との速報。妹が長野に出張中なので「!」と思って電話。「南部なので揺れは大きくない」とのこと。その後も連続的に「緊急地震速報」の警告がラジオとPCのUSTと携帯電話から鳴る。「太平洋側と日本海側の地震は別」との報道に「別ということはないだろう」と聞いていた全員でつっこむ。別と言えば別だし、同じと言えば同じなのだと思う。日が昇ってJRは7〜8時から運転再開との情報を連絡。こちらはしばらく待機。仮眠。起きて帰らせるべき人々に帰ってもらう。10時に携帯電話の充電器を探してDショップAショップBカメラへ。充電器を持っていることがいかに大切なことだったか。充電しつつ待機。昼前に職場の人に帰ると伝え駅へ向かう。実家に連絡。山部に連絡網的にメールを回してみる。東京各地の状況が知りたいが手当り次第に連絡するのもはばかられる。新宿駅はもうそれほど人が溢れていなかった。


・3月12日午後の記録。中央線で西へ。各駅&列車の間隔は開いているものの走行は順調。中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪あたりまで中央線沿いの家の瓦が崩れかけている様子が目に入る。私見ですが吉祥寺あたりからはあまり気にならなくなったので、西の方はそれほど比較的揺れが小さかったのかもしれない。「武蔵小金井近辺の南側の公園で大勢の子どもと母親が遊んでいる様子」がとても不思議な光景。高尾に着く。完全に日常の光景。普段灯油を買う商店のおばちゃんが「この辺は岩盤があるから揺れないのよ」と言う。家に帰ると本一冊たりとも動いてないので逆に変な感じだ。裏の大家さんと状況報告。「岩盤があるから大丈夫」と言う。しばらく実家に帰ると伝える。駅前で山部部長に連絡。ほぼ同じタイミングで都内から高尾駅に帰ってきていてたので駅前のレストランでランチ・ミーティング。色々状況報告。レストランの夫妻も「岩盤が(略)」。部長と別れて実家へ向かう。途中twitter原発のニュースが断片的に入ってきてちょっと「・・・」なことになってきたと思い一瞬わけがわからなくなる。最寄り駅で家族と合流してスーパーで買い出し。わかめ購入。帰宅。そこから先はただただ情報収集。



・そして今。実家の適度な緊張感のなさはそれはそれで貴重だと思いつつ、テレヴィジョンとインターネットが揃っている環境も大切だと思いつつ、しかし一方あまり不安をあおるようなことはしないようにしなければいけないと考えつつ、そうは言ってもところで昨日の夜既に東京から西に移動を始めた友人がいるということも事実でありつつ、そして今。こうしている間にも状況は進む。しかしこのような時ほど考えることは、時間によっては適度なエンターテイメントも大切だということで、そして何より適度に人とちょっかいを出し合うことが大切だということ。野蛮かどうかわからないけど無力だなぁと思いつつも、「最低限の情報」以外の物事、そして言葉も必要になることもあるということ。集まる。連絡を取る。


                                                                                                                            1. +

・13日の記録。たくさん寝て起床。情報を収集。そうか今日は日曜日なのだな。実家の家族4人で買い出し。必要そうなものをリストアップしてみる。停電の可能性を考えつつ…懐中電灯?ラジオ?米?水?など想像&相談。昼前にホームセンターに到着するとすでにDOITはYOURSELFな対策のために人が溢れていた。恐らくは懐中電灯に使うための「単一の電池」が完全に品切れ。なるほど。食料など購入して帰宅。状況が読めないので明日の歯医者はキャンセルする。明後日の職場の会議も中止になる。一時間単位、数十分単位で区切られていた時間という概念がどんどんほどけていくような感覚。しかしそんなことはこの際仕方ない。夕方から車で高尾へ。家に置いていたライトなどのアウトドアグッズを持ってくる。TSUTAYAのDVDも返却。府中街道甲州街道、車の流れは悪くないものの、ガソリンスタンドの前だけ突然凄い列。途中立ち寄った八王子のヨドバシカメラは売り場のテレビがシャット・ダウン&店内ノー・ミュージック。節電だ。ドンキ・ホーテも「ジャングルだ」のミュージックが流れていないとまるで別の空間。様々な場所の風景が変わる。


・それで帰宅するとテレヴィジョンからは「輪番停電(りんばん・ていでん)」なる言葉が流れている。「り、りんばん…?」新しい状況には新しい言語。あるいはあるはずではなかった特別な状況を指す使うはずではなかった言語。状況がまだ掴めないので想像するのみだが、電気がないなら電気がないなりに生活をアレンジメントすることを工夫する。グループは5つに分けられていたが「清瀬市」が1〜3のすべてに入っていて、本当にそうならばほぼ丸一日停電。家の者全員笑。twitter上でも様々な憶測が飛び回る。友人の「山に登ると思えば…」というツイートに返信。病院など少し違った状況にある人はもちろん大変だが、我々などはすぐに慣れる。驚くべきスピードで慣れるはずだ。電気が通っている時間を想定して「一日2.5食」にしたり、強制的にシエスタをとったりしながら、新しい日常を作るだろう。


・山部にもメールで連絡。T夫妻が偶然にもこのタイミングでマイカーを購入していたという事実。市部、西部の列車の運行が読めなくなれば車はやはりひとつの有効な移動手段となるだろう。停電の時間に何をするかを考える。読書かもしれない。図書館でも作ろうか。友人の飲食店も様子を見ながら営業を再開するという。きっと照明はキャンドルで、ミュージックはアコースティックかもしれない。あるいはアカペラかもしれない。


・そして多分今自分(たち)にとって、かなり、それなりに、まぁまぁ大切なこと。twitter上でも話題になっているのは、みんながみんなうっすらと「不謹慎」という言葉を傍らに置きながら言葉を選んで発していることだ。もちろん被災地は今なお大変な状況だ。原子力発電所の作業も完全に予断を許さない。しかし自分たちがあらゆることに対して「不謹慎だ」「不謹慎かもしれない」「不謹慎と思う人がどこかに一人でもいるかもしれない」「不謹慎かもしれないと思った人がRTして誰かを嫌な気持ちにさせるかもしれない」という気持ちに捕われてしまったならば、「生きててごめんなさい」という気持ちで、黙ってテレヴィジョンを見るか、寝てることしか出来なくなってしまう。140文字は、あるいはメールの言葉は難しい。同じ文字でも語るニュアンスによってそれは、気持ちを共有するための、不安を支え合うための言葉になる。だから直接会うことは精神衛生上好ましいように思う。そのようなことも含めて、新しい日常に対応しながら、さらに大変な場所にとっても意味のあることとは何か考える。考えるのは得意、だかどうかはわからないけれども、とりあえず好きだ。「考えることが好き」であることはまったく「不謹慎」ではない、と思う。