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  映像研究

ふたつのテレヴィジョンと、多数の場所

 
・3月27日の日曜日は春の業務が開始。チーム同僚とも久しぶりの集合。3週間ぶりくらいだが、しばらくメールだけで連絡を取り合っていると妙な感覚がある。業務は順調に終了。終了後急いで実家へ帰宅。テレヴィジョンが観たいのだが、それはニュース的なものの為ではない。『金八』を観なくてはいけない。『金八』なのに『日七』から始まるので焦って帰宅。そして視聴。最後のシリーズとなったパート8の第一話を観たことが備忘録されていたならば、そこで自分が考えていたことは、やはり「教育に市場原理が導入されること aka 教育の民営化」の問題である。そして自分は今なおそのことが気になり続けていたのだった。あるいはまた少し前に実家に置いてあった『週刊金曜日』には、まさに「和民の社長の人」がそのような「教育改革(というか改悪だと思うよ本当に)」を進めようとしていることと、その問題が書かれていた。学校に「経営の論理」とかいう謎な概念が導入されることに対して恐ろしくて震えるしかない今も尚。だからもしや「日曜七時に始まるその番組」は「金八」と「和民」の戦いかもしれないと思っていたし、あるいはそれは都知事選の前哨戦になるのではないだろうかとすら思っていたのだった。


・そしてならなかった。結果的に上記の勝手なテーマ設定(期待)とは全く無関係のドラマだったが、まぁしかしそれはそれで面白かった。個人的には「新潟の加藤を訪ねて行った(あのコンビナートが原子力発電所ではないことを祈る)金八が頼みを断られて我に返るホームでのシーン(何をしてるんだ俺は…!)」と「『悪についての授業』再び(悪はどこにありますか!?/パート5)」が、4時間の展開のカタルシスのピークであったと思う。個人的に金八を一種のドキュメンタリーとして(半年をかけて生徒を演じる少年少女たちが、ある独特なグルーヴのようなものを生み出す)観ている自分としては、どう考えてもひとつのクラスを4時間(実質2時間)でまとめあげていくのは無理だと思ったし、実際無理があったけれども(街の至る所に金八教の信者が点在するサスペンス的中盤)それもまた仕方がないことなのか。しかしながら、例えばあの「理科の先生のリアリティ」というものが自分にとってはどの程度なのかわからないけれども、いずれにしても「体力の限界を気力で何とかカバーする金八」を前にして、自分たち20代、30代の人間が、また別の強度を持った言葉を発することで何かをしなければいけない。そのことを考える。それは完全に教育される為に観ている自分の発見であり、そして完全にこの備忘録はそのテレビドラマを観ている人にしか理解できないだろうと思う。いつかまた時間が出来たらDVDで観返そうと思う。


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・3月28日の月曜日も朝から春の業務。ところで久しぶりのテレヴィジョンの視聴だった昨日の4時間を思いだしていたのは、それは『金八』の為ではなくて、そのドラマの合間に流れる、完全に暴走した「公共広告機構」のコマーシャルの恐ろしさについて考えていたのだった。こういう時期だからなのかどうなのかわからないけれども、ほとんど5分に一度くらいドラマが途切れてCMに入ったならば「国民的アイドルグループ」が震災からの復興をまさに国民的に呼びかけ、そしてその後にサブリミナル的に「元ウルフルズの人」が『日本は強い国!』という常軌を逸してるとしか思えないフレーズを笑顔で語りかけるという、本当に謎のCMが流れ続ける。


・そのCMを観て、初めはとにかくびっくりしたこともあり(一週間ほどCMを観ていなかったから「金子みすゞ」とか「ぽぽぽぽーん」あたりで途絶えていた)何だか気恥ずかしさもあり、一緒に観ていた実家の家族と「これは…ちょっと違うよね?」と笑いつつ話していたのだけれども、あまりにも『日本は強い国!』を連呼されるものだから、次第に「あんた、ちょっと静かにしてくれないか(「ガッツだぜ!くらいにしておいてくれないか)」と怒りもしつつ、しかしながら最終的にはただ恐ろしくて、言葉を失う。そしてサッカー選手だかの『日本はひとつのチーム』というフレーズも追い討ちをかける。


・自分はこれまで、どのような状況であれ、多分一生のうちに「『日本は強い国』という言葉が5分に一度聴こえる世界」に生きることはないだろうとどこかで考えていたのだと思う。だからどんなに「国を憂いたり」「国を愛そうと呼びかけたり」する車が走ったりしていても、自分はそれを「特別な人が特別なことを言っている」と思っていたのだ、ということがはっきりとわかった瞬間だった。そして今自分が、現実に生きている世界は「『日本は強い国』という言葉が5分に一度聴こえる世界」である。そしてそのことに対して、その現実を笑い飛ばすくらいのタフなユーモアが自分にはないということも理解している。そのメッセージは有害ではないのかもしれない。有害ではないのだと思う。しかしそれがどういった意味で、範囲で「有害ではないのか」について、考えなければいけない。気を抜くと今も「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と途方に暮れてしまう。


・ふと「こんなとき『広告批評』があればなぁ」とつぶやいてみる。例えば橋本治という人だったら、この状況に対してどんな「ああでもなくこうでもなく」を書くだろう。きっと「元ウルフルズの人」をやんわりとたしなめてくれるのではないかと思う。それを想像する。あるいはまた数年後に「あのCMは…ちょっとばかりアレなムードが出過ぎちゃったよね」と多くの人が思う日が来るのだろうか。それも想像したい。あるいはあるいは今この瞬間に別の国の人が偶然にもあのCMを目にしたのならば「色々な意味であの国はピンチなのだな」と思ったりもするのだろうか。それだって想像している。想像だけでも良いから『強い国』の外側に出たい。そうでないと本当に身体的に「息がしづらい」のです(放射能抜かしても)。しかし、だから、そんなときこそ、言葉を書き、話そうとも思う。基本的に楽観的である自分は、数週間もすれば『日本は強い国』のムードは薄れると思っているし(期待)、そもそも多くの人が「別に『強い』とか『弱い』とか、関係ないよね…」と考えているだろうとも(希望)思っている。


・しかしそれでもやっぱり釈然としないものがあるならば、自分は『強い国』の中に『強くも弱くもないし国でもない場所』を作ろうと思う。それは二人以上の人間が顔を合わせて話をすれば、いつでも、どこでも、すぐにでも生まれる仮説的で実体のない、でも確かな「場所」だ。その場所で、集まりたい人が、集まりたいときに、集まろう。電力や民主主義や、色々なことについて話をするかもしれない。もちろん何か食べるのも良い。歌も歌いたい。差し当たって花見、かもしれない。