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  映像研究

ソーシャルな、ネットワーク

 
・今日から3月だが完全に寒い火曜日。雨も降る。Kがつく粉は比較的飛ばない。休日というか休暇中であるところの今。業務が一段落してから3週間。ようやくいろいろなことが考えられるようになってきている、というこれは自分の話。方々で言っている今年の目標「節約及び貯金」はどのように果たされるべきか、考える。今までだってもちろんそれほど贅沢な生活はしていないつもりだったけれども、ではいざここから「節約しよう」と思うと、何をどうどれくらい削減すれば良いのかはなかなか難しい。そしてそのような難しいことをしていない人は誰もいないという端的な事実。とりあえず積んである本を読むのは無料だ。あと図書館。そしてUSTREAM


・昼過ぎに立川に必要なものを買いに行ったついでに「おお、そうか、今日は1日だから映画が1000円で観られるのだな」と思って、シネマシティにて『ソーシャル・ネットワーク』を鑑賞。昨日DVDにてマイケル・ムーアキャピタリズム』を鑑賞した自分にとっては、どう考えても柄ではないチョイスだったのだけれども、そういう映画こそを今観たい心境だったのだ。1000円であることももちろんあるとはいえ。そうして鑑賞終了。あっという間の2時間弱。ものすごく集中して観られた。洋画だけどキャストの判別も出来た(洋画のキャストの判別がつかない症候群)。場所の描き方がきれい。面白かったかどうかと言えば面白かった。しかし…やっぱり登場するキャラクター(というか基本的に実在する人物なのだけれども)のメンタリティーがまったく、ほとんど、かなりの部分、理解が出来なかったので、基本的には「強欲な人たちが意地の張り合いをしている様子」を見つづけてげんなりした、という感想。だからこの映画がアカデミー賞候補(?)というのが本当に謎だった、という自分はやはり色々な意味での映画のマジョリティには近づけないのかもしれない。


・そうしてげんなりしつつ、しかしあの映画のタイトルが『ソーシャル・ネットワーク』であったことを考える。「ソーシャル・ネットワーク」はもはや完全に日本でも普通の言葉だけれども、あえて「ソーシャルな、ネットワーク」と記したときに、それは何と訳すのが相応しいのか。そしてそれは2010年、あるいは2011年においてどういう意味があるのか、ということは考える意味がある。そうして「強欲である」と考えられる人たちが、そのことに無自覚であることにおいて、あるいは意識的に開き直ることにおいて、違和感を感じる自分は、いつの間にか「自由」という言葉の、概念の周りをくるっと回るようにして(つまり距離は変わらず意識しながら)別の場所に立っているのかしれないなと思う。『キャピタリズム』のパンフレットにコメントを書いていた(字幕の監修もしている)森永卓郎という人と、吉田司という人の2〜3年前の対談本『資本主義はどこまで暴走するのか』をぱらぱら読み返すと、そこで書いてあることにかなりの部分で同意できたりする。そこでは「自由」という概念は「新自由主義」で使われるように、「強欲」と通じる感覚を表現しているのであるのならば、それに対してどのような新しい概念が必要とされるのか。公共の場所が私有化されるときに権利として訴える「自由」ではなくて、何を根拠とするべきなのだろう。


・いろいろ考えつつももちろんまとまらない。しかし「ローカリズム」をどう現実のレベルで機能させていくのかが急務なのだと思う(not スロー)。スローなライフ・スタイルを維持するためには早急に考えて行動に移さなければいけないことも(多分)ある。「#kaminoseki」の上関原発のことももちろん気になって、ついついパソコンの作業中にもtwitterのタイムラインを追いかけてしまう。これはとりあえず「ソーシャルな、ネットワーク」だ。そしてまた現実の場所での集まりはUSTREAMも巻き込みながらどんどん展開されていくのだろう。テレヴィジョンでは伝えられないらしい情報は、しかし別のネットワークを通じて伝わる。2日は「モラトリアム・カミノセキ」が、3日は「DOMMUNE」が、そして4日は(中継はなさそうだけど)ISEPという団体のシンポジウムが行われて、そしてそれはこのあとも続いていくだろう。USTREAMはもちろん、自分の部屋でも見られるのが特徴だけれども、あえてそれをパブリックにヴューイングするのも面白いのではないかと考えている。ああだこうだ言いながらネットワークから伝わってくる映像を観るために集まる。あるいはそれを観てまた話す。