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  映像研究

朝起きて本を

 
・本を読む日々。正確には「読もうとする」日々。朝起きてお茶を飲みながら本を開く。読む。飽きれば閉じる。別の本を読む。飽きれば閉じる。インターネット。別の本を読む。というようなことを繰り返しながら秋休みはただ過ぎつつある10月20日の水曜日。夕方に本を閉じたのは座・高円寺宮沢章夫という人の遊園地再生事業団の『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』を観劇しにいくため。世田谷で観た前作『ニュータウン入口』から約3年。3年かぁ。3年は短いようで意外と長い。しかしあっという間だった。そう思いつつ当日券を購入して観る。



・観た。前作しか観ていないのにその前作のみと比較するのもどうかと思うけれども、それにしてもとりあえず色々なことが「無かった」印象。具体的な舞台となる場所が無い。出来事を順に追って理解するためのストーリーが無い。エピソードして対応するような現実の事象(事件)が少ない。そして物語としてのカタルシスが無い。映像は使われていても「現実と映像の境界」のようなものは無い。というか色々な境界が無いという印象。印象を総合するとそういう印象。「境界が無い」ものを観るのはスリリングといえばスリリングだけれども、観終わって「何を観たのか」と考えればよくわからないという印象。



・そして個人的に『ニュータウン入口』のぐっときたポイントとしての固有名詞的な要素というか、引用具合というか、そういう部分に対して、『ジャパニーズ・スリーピング』は一見すると「エピソードして対応するような現実の事象(事件)が少ない」と感じたということ。それは「『2007年には2007年に語られるべきこと』があったけれども、それと同じようには『2010年には2010年に語られるべきこと』はない、あるいは少ない」ということだったりするのか。どうなのか。固有名詞的とはいえ、それはイコール時事的な事柄、ということではないから、2007年には1997年の神戸で起きた事件が接続される必然性があった(ように思えた)のだけれども、それが2010年ではどうなのか。そして「集団自殺」というトピックスは一見そのような要素(時事的な事柄/ある特定の出来事)であるような気もしつつ、でも演劇全体との関係ということでは、違った扱われかたをしているようにも思えた。



・単純な意味での引用ということならこの演劇ははっきりと「読書」についてのパートもあった。本を読むシーン。声に出して読むシーン。あのシーンは何となく良かった。その「良さ」について考えたりしながら、とりあえずまた別の読書へ。