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  映像研究

そして今は9月。いつも新しい秋。

 
・山から帰って来て写真を整理して寝る。起きていつものように(いつものことになりつつある)洗濯機に数日間山で使った衣料や道具たちを放り込んで、縁側の先の庭的なスペースにテントを干す。晴れた9月1日。7月後半と8月を主に労働の期間として過ごす自分にとっては、9月の始まりはささやかな休みの期間、自由な時間の始まりのようなイメージを持っている。自由な時間。人と会っても良いし/会わなくても良いような時間。そのような時間に自分なりに色々なことを考えたり活動をしたり……としたいところではあるのだけれども、毎年気がつけばすっかり冬になっていたりするのだから(12月になるとまた労働の季節なのだ)、今年は少しだけうまく時間と機会をアレしようと思っている。まぁ、どうなることかわかりませんけれども。



・「うまく時間をどうにかする…」ようなことを頭では考えて/言葉にしていても、どこかで「そのような思考」それ自体をいかがわしいもののように思ってしまう自分がいる。そういえば2009年ももう後半で、それはつまり2000年代というものがもうすぐ終わりつつあるということだけれども、1999年の時ほどそのことを意識しないのは、やっぱり前回が「ミレニアム」だったからで、それに比べると2009年から2010年になるというのはどう考えても地味だなぁと思ったりもする今日この頃、そのような中で個人的に2000年代を代表する流行語にして、現代の色々なところの思考や行動や方法に影響を与えた(ている)のは、今や口にするのも恥ずかしい(書くのもかなり恥ずかしい)けれども『想定する』ということなのだと思う。想定しているのか、していないのか。するべきだろうとかなんとか。



・想定していない、と言えばそれは何か頭の悪い(要領の悪い、と同じ意味なのだろう)ことの印のように思われる今だからこそ、目の前のものを指差して「想定していない!」と言い続けるようなことを、それだけをしたい。自分や他の誰かであっても、その人が「想定できる」ことなんて本当はたいしたことじゃないと本当に思う。あらゆる物事を「想定していなかった」ものとして見ることができれば、もう少し色々な事柄が単純になるのではないかと思うけれども、それはそれで多分にコンセプチュアルな言い方なのかもしれない。しかし、想定していないような人と会ったり、想定できないほど美味しいものを食べたり、雑誌で調べたことより全然面白い場所に行ったりすること以外に楽しいことなんて何もないと思う。言葉も映像もその他のイメージも、本当はすべてそのためにあるのだと思う。



・3日間山に行ってきて、帰って来て何が変わったといえばそれは政権が変わったのだ。前回山からかえって来た時は、元アイドルが容疑者に変わっていたけれども、それと同じくらいかそれよりも少しだけ大きいくらいなニュースとして「政権交代」は報じられている。そのことに関して例えば、自分は全く支持していない自分が暮らす自治体の知事が「雰囲気に流されるのは恐ろしい」というようなことを言ったようで、それがどういう文脈で(どれくらい真剣に)話されたのかはわからないなりに(繰り返すけれども全く支持していないなりに)自分も今回の選挙の結果として同じようなことを思ってしまった。アメリカの大統領がリベラル風味の人になった数ヶ月後に、日本も少し遅れて少しだけリベラル風味の党がマジョリティを獲得したって、本当に重要なことにはほとんど関係がないような気さえしてしまう。



・というやや諦めにも近い気持ちもありつつ、それでも良くも悪くも「これが現状である」ことは理解しなければいけないのだと思うし、その「現状」が何で(誰で)構成されているのかはしっかり学ばなければいけないのだと思う。そういえばこのような事を考えはじめたのは、四年前の衆議院の選挙のときに何だかよくわからないままに出馬したのがまさに「想定する」ことの格好良さを(自分は全然格好良いと思いませんけれども)口にしていた或る会社の社長だったことを思い出したことからだった。あれから四年経った。四年しか経っていないような気もするし、四年も経ったような気もする。四年前に四年後の今がこのようになることなんて全然想定していなかった。そして今はまた新しい秋で9月だ。