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  映像研究

年配の人、若い人、学び。みんなそれほど気にしていない。

 
・201810250952。家のデスクにて片付けをして今。業務に行くまでの間少しだけ作業ができる。その前にメモ。


・水曜日の午前中にフランス語のクラスを受講していると、そこに集まる学生と呼ばれる人たちは、その場所以外のどこでも出会うことのない人たちだと思う。年齢は自分より上であることの方が多いが、それぞれに動機を持ってフランス語を学んでいて(当たり前なのだけれども)予習も復習もしっかりやっている。見習わなくてはな、と思う。「あなたは若いから」とか言われて「いや・・・」とかいう居心地の悪いやりとりも、それはそれで刺激的なものだ。というか爽やかに軽やかに学びの場にいるその人たちにどのようなこれまでの生活があったのだろうと、そのことの方が気になってしまう。その人生と現在進行形の学びについて。あらためて考えることは、予習、復習をやることの大切さと、動機を持つことの取り換えのきかなさについて。そして何事かをある段階から先に進めることになると、否応なく自分の特性のようなことと向き合わざるを得ない。これは毎年同じようなことを繰り返している業務に関わる自分のような生活からは見えづらくなっていることだ。「体得していくこと」の面白さと困難を思う。それが実践ということだった。実践は新しさとともにある。


・そして、あることが忘れずに身についてゆく、とはどういうことなのか。自分よりかなり年配のクラスメイトは「すぐ忘れちゃう」と言っていた。そういうものなのだろうか。今まで蓄積してきた記憶が膨大にあるから新しい事柄を覚えることが難しくなるのだろうか。一方で業務の一環で大学一年生にインタビューをして、また別の種類の爽やかな印象、軽やかな印象にも打たれる(撃たれる)。知識や好奇心が身体の周りを流動しているような、生々しい様子に心を動かされる。その状態では生きていることがそのまま学びの態勢になるのではないか。「生きることはそれだけではない」と言うことは簡単だが、そういう態勢を思い出し、そしてそれを持ち続けることの「美しさ」について、考えさせられた。自分より全然若い人からは、教わることしかない。


・しかし覚えることとはなんなのだろう。あるいは忘れちゃわない、身につくこと、とは何だろう。本当の意味での能力とは何か。「身につく」とは「取り換えのきかなさ」の別名でもある。素朴に考えると、必要なことは、反復すること、そして「自分のこととしてやること」「やらなければいけない」と思ってやること、が挙げられるのかもしれない。自分はそれがあまり得意ではない。「ぼくら半分、夢の中」と思って(というかそういう態勢が身についている)生活をしているから、時々他者のそういう必死さに触れて、ほとんど恐ろしいような気持ちになるのだ。それは多分「価値観」というようなもの以上に、人と人の間の乗り越えることが難しいような断絶にもなる。それを人はなんと呼ぶのだろう。「雰囲気」?「人柄」「感じ」、どれも不十分だ。「資質」「性質」「性格」、と言ってみる。


・環境は重要であるのだろう。教室と呼ばれる空間を見ていても、そう思う。人の雰囲気はブレンドされて空間を満たす。「まれびと」も重要だろう。空気を作っていることに自覚的になった上で、別の動きを作り出したいと思うのならば、まずは、空気を吸う。そして空気を乱す、空気を消す・・・しかし同時に空間も、空気も、人自身を決して変化させないようにも思うのだった。それは人の「強さ」かもしれない。声の大きさや主張の有無と全く関係なく、その人がその人であり続けること。


・考えは滑り続ける。中断。