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  映像研究

イメ中について

 
・唐突だけれども、どうにもこうにも「活字中毒」が羨ましいなと思う今日この頃。そういえば昨日上野の古書店でのこと、中年の女性二人客のうちの一人が「あ〜やっぱり買うのやめる。だって本読むと眠くなるんだもん。」と言って棚に本を戻しているのを見た。個人的にはそれが一体何の本だったのかを確認しなかったことが本当に悔やまれるけれども、いずれにしても、それを見て自分はその人はきっととても正直な人なのだと思った。のだという、このようなエピソードから何が言いたいかというと、例えば自分は片道45分の通勤電車では、全然まともに本を読むことが出来ないということ。気づくと車内の人の顔をこっそり凝視しているか、あるいはぼやっと車窓を眺めたりしているか、さもなければ眠っているのでした(強制終了)。


・そこから思いついたのは自分はきっと「活字中毒」ではなくて「イメージ中毒(以下、イメ中)」なのではないかという件です。「活字中毒」の人がついつい本や本でない文字を読んでしまうように、自分ならば写真なんてあればあるだけ見てしまうし、車窓を見てればどこまでだって乗り物に乗れてしまう。そしてテレビなんてついてれば人と会話をすることは確実に困難だ(だから家にはテレヴィジョンを置かないようにしているかもしれない)。しかしそれが悪いことかというと…(開き直るつもりもないけれども)少なくとも、その「中毒」であることが何なのかを考えることには意味があるように思ったのでした。


・だけどもしかし、そういえば一昨日電車の中でのこと、割に若い母親と息子(推定5歳)と娘(推定4歳)が並んで座り、母親はノートPCを、息子と娘はそれぞれニンテンドーDSを手にもってゲームをしているのを見た。そしてどうやら息子はそのゲームをなかなかうまく進めることが出来ていないようで、そのことで母親にたびたび怒られていた(ように見えた)。自分はもちろんのこと、その様子を見ていた車内の人全員が(みんな気になっているように見えた)「こりゃぁすげぇ世の中になってきたもんだ…」と思っていたに違いない。そのくらいハードコアにある種のテクノロジーの最先端をチラ見した気持ちになりました。(ちなみに3人の着ているものや持ち物がネズミだらけだったことも強く印象に残っている)


・今やゲームについて全く興味がない自分としては色々な謎を残す情景だったのだけれども(楽しいのかなぁとか)、とりあえずこのようなサンプルと、自分が考える「イメ中」は全然関係がない。つまり、ゲームに熱中することとか、そのような情報との接し方が環境としてあることとかは、きっと何かの分析の対象になったりするこのもあるのだろうけれども、それと「イメ中」とは関係がないということ。webページを閲覧するようなことも含めて、ゲームとかはたぶん、何かを「見ている」のではなくて、何かを「コントロールしている」という意味合いが強いのではないかと思うのであって、だからコントロールの結果として表示されているその物、その状態は、特に「見る」ためにあるわけではないのだろうと思うから、何となくつまらなく思えてしまう。というような意味で、自分が興味がある「見る」こととは本質的に受動的なことなのかもしれない。


・そんな中最近「イメ中」的感覚をくすぐられたのは『月刊かがくのとも』の「みんなおなじ でも みんなちがう」。以下のような構図の写真がモチーフを変えて延々並ぶ(種、卵、貝、松茸など/なんか微妙なラインだな)構成は、端的にコンセプチュアル・アート的なデザインだということもできるけど、もう少し別の角度から面白さを考えてみると、それが「みんなおなじ」「みんなちがう」というメッセージのぎりぎり一歩手前で放り出されたような(それでいて見る人を待っているような)そういう印象の「様子」であるからであって、そのことは、ちょっと可笑しくもあり、なんか敬虔な気持ちにもなり、またどこか恐ろしくもあるからだと思う。とりあえず凄く良いと思ったのです。…しかし色々と書き連ねつつも、「結局は『子供にはゲームなんてやらせないで絵本を読ませろ』って言いたいんだろ(そうなんでしょ)」というニュアンスがあるのだとしたら、確かに無きにしもあらず。このような面白さと格好良さをどうしたら伝えられるのだろう?だって見開き一杯に「生姜」。