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  映像研究

どこを見るか

・201903290901。昨日の授業は面白かった。写真を撮影することを課題として課しているが、いつでも誰かが撮ってきた写真を見ながら話を聞くことは面白い。春だから、出会って間もないから、からという理由もあるだろうが、その不思議なコミュニケーションを新鮮だと思う。そしてそもそも自分は、写真を見ている人、文章を書いている人を見ることが好きだ。それは電車の中でスマートフォンでゲームをしている人(を見ること)とは何かが違うように感じるが、それはあまりにも恣意的な判断だろうか。わからない。しかし自分にとっては異なる。「わからない」ことを前にしている人、ということだろうか。考える人。

 

・日々の生活を営む上でひとまず(今のような生活ならば)お金を得なければならないが、その手段の中に「写真を見る人を見ること」や「文章を書く人を見ること」があるのは幸福なことだと思う。生活の手段に「会話」「対話」あるいはそうした状況をセッティングすることがあるのは有り難いが(そうでなければ人とコミュニケーションなどしようと思わないかもしれないから)、それ以上に「見る」「書く」その姿を、自分もまた「見る」ことがあるということの尊さ。尊いと思うようになってしまった。教室もアトリエもこの世界に辛うじて許された時空間なのだと思うようになってしまった。簡単に壊れるか消える。あるいはその光の当たった舞台から降りなければいけないことがある。

 

・あるいは生活の手段の一部として「撮影すること」があることも面白く有り難い。ルーティンのようになりがちだが、「撮影すること」はいつも、それでも、なおかつ「新しい」。人を撮ることには発見がある。人の姿を、生きている様を、感情を、動きを、引き出し写したいと思う。なぜならそれは見る人に感染するからだ。それは作品ではない。しかしそうした作業は辛うじて自分の学びになっている。中断。