・広告について。もう数年前のことになるけれども、広告をつくることを仕事にしている友達に「広告ってなぁに?」という質問をしたところ「それはつまり『広くしらしめる』ということです。」と返答された、ということをよく覚えている。広告を「物を買わせようとする」ということに限定するのではなくて、『広くしらしめる』ことであるとするのは、なかなか面白い定義だと思う。しかしそのような「広告」の定義を拡大することには、面白いなぁと思う部分と、危ういなぁと思う部分の両方があるのも事実です。
・それで、自分は「広告」というものにどこか警戒心のようなものも当然持っていて、だけれどもそれは「テレヴィジョンのコマーシャルに騙されないようにしよう」というようなこととはちょっと意味が違う。それは例えばSNSのようなものの中でのコミュニケーションや、オン・ラインで日記を書くようなことが、気がつくと自分自身の「広告」のようなものになっていること、そして「表現すること」と「広告すること」の定義が限りなく重なってくる結果として、気がつくと誰もが「思わず口をついたひとりごと」のような表現を、発想から、意識から忘れ去っていくことに対する警戒心というようなものです。
・例えば「受け手のことをきちんと考えた表現をしよう」というような言葉は、一見メディア・リテラシー的なメッセージとして非常に真っ当なことを言っているようで、しかし「コミュニケーション以前」とでも言うべきある種の「表現」を抑圧する力にもなっている。そしてそれは(広義の)デザインがアートに取って代わると信じられている/いた時代(00年代?)を象徴する考え方だと思うから、その中で今考えるべきことは、そのような状態(意識のレベルでも/社会の仕組みとしても)から、いかに別のあり方を想像できるかということなのだろう。
・さて、途中から完全に話が横道にそれましたが、そのようなせめぎ合いがありつつも『広くしらしめる』こと、という意味において、以下は紛れもない広告です。それは「楽しいこと、面白いことを一人でも多くの人と共有すること」を目的とした、不特定多数(あるいは少数)に向けた広告です。