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  映像研究

とてもエモーショナルな備忘録

 
・気がつけばすっかり「寒さ」がやってきてしまった11月。暖房問題は急務で、アラジンのストーブだって夢に出てきかねないモード。


・昨日5日(水)は休日。前日遅くまで何やかやと起きていたせいで寝坊してしまったことがすべての元凶だったのです。中央ラインに乗って荻窪は某古書店にて先日check it outしてあった『山のABC』(ブルータスやエスクァイアの山特集でも取り上げられていました/山・文芸・グラフィックデザインを横断する約50年前の素晴らしい書籍)を購入する気持ちで(財布で)訪れたところ、確かにそれらの本が(3冊セットなのでした)あったはずの場所には完全に完全な「空間」があり、その「空間」は明確に「さっきまでありましたよ」的なアウラを醸し出していたものだから、その「空間」をぽかんと30秒くらい(長く感じられました)見つめていた自分は、あまりにもわかりやすく「何かを買いそびれた人」だった。


・いやでもまてよと思って「本が移動された可能性」を考えて店内を3周くらいしつつ、あるいは「今まさに買われている可能性」を考えて他のお客さんの手元を凝視しながら「あのーこれーすごい探してたんですぼく」的な文言を考えたりしてはみたものの、当たり前だけれどもそういう言葉の出番はなかった。帰り道この失意をきっかけに色々なことを考える。人間は失意を紛らわせるために「想像力」を駆使するのでした。「ああ、きっとあの本を買った人は結構な年齢の方で、若い頃にはガンガン山登りをしていたけど、もうからだも動かなくなって、それで古本屋で青春の思い出として『山のABC』を見つけて、今頃きっと縁側で奥さんとそれを懐かしく読んでいるのではないかな、いいことをしたなぁ」的な物語や「いや〜そもそも私的所有という概念が20世紀的なのだよ。これからの時代はシェアだよシェアー(半泣き)」的な思想だって生まれる。それにしても買った方はどんな人なのでしょう(友達になってください/パトラッシュと一緒に見に行きます)。


・しかし「私的所有=それを自分のものにすること」とかはさておき、ずっと「見てみたいと思ってるもの」があるというのは、それ自体はとても健康的なことだと思う。自分自身と約束をしているというかなんというか。まぁいつか見られるだろうなという希望がある。



・そのような「ミニ四駆が買えなかった小学生」くらいのエモーショナルな馬鹿馬鹿しい失意&センチメンタルを抱えたまま、夜は後輩の留学生におよばれされて「韓国家庭料理フェス」に遊びにいく。終始和やか且つ熱っぽい学生トーク(学生だもんな)の最中には、同僚ガールの過剰な「韓国のテーブルマナー」に苦笑しつつも、とりあえず冬の「鍋」「辛いもの」は最強だ。それは人を仲良くする。夜だってあっという間に更けるのだから、みんなで終電に走る。