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  映像研究

第三回

・山部オンライン・ミーティングも今週で3回目。野村訓市のTravelling Without MovingをBGMにして20:00くらいに緩やかに始まる。週を経るごとにお互いの生活の習慣や今のコンディションが伝わってくる。決して軽くないその存在を感じながら自分も思っていることを言葉にしてみる。

 

・「山に行くことと街で暮らすことのあいだ」という言葉は、ある時期の自分や自分の身の回りの人たちのスタイル=思考の基になっていて、今は確かにその時とは少し離れているけれども、思い出すこともあるし、深いところでの自分の考えや判断に影響を与えている。あるいは2000年代後半には「山に行くことと街で暮らすことのあいだ」のような雰囲気はトレンドでもあり、少し意識すれば、見知らぬ誰かともチューニングを合わせることもできた。2011年3月以降の政策的なキャッチコピーなどとはまったく異なる意味において「繋がり」ということを、確かに感じていた時期があった。

 

・「山に行くことと街で暮らすことのあいだ」という言葉を読み解いてみると、その「あいだ」は「中間地点」ということではなく「交差するゾーン」や「反復する運動」をイメージする。どちらかが基盤なのではなく、両方がバランスしていることに意味がある。では「山」とは何か。昨日友人が発した言葉の中に気づいた瞬間があった。登山が自粛されその自粛が一切疑われない状況において「山」の意味は消滅するように思えた。それは「山」が「公園」と同じように管理される空間であることに対する一切の疑いのなさと通底する。いつでも自分はスポーツの競技場とは異なる場所として「山」を捉えていたし、それは多くの人にとってそうなのだ。

 

エクストリームスポーツには、そういう暮らしの一部としての来歴がある。やらないから想像だけれどもサーフィンやスケートボードにもそうした一面がある。競技とも異なる、趣味とも少しずれる、自己との対話と言うのが適切だろうか。そうした意味がある。このところの自粛にはそうした、空間と対象を必要とする種類の「自己との対話」を、消費行動と一方的に判断した上で、それを忘れさせ、別の消費行動に誘導するような意図を感じる。「テレビを見ていなさい」「ネットショッピングをしていなさい」「ジョギングはよいですよ」・・・この状況に、そうした問題を提起することは、不道徳であるか。

 

・こうして概念としての「外」について考えたとして、その思考を、この2020年5月の東京という場において、いかに実践できるか。