&

  映像研究

夏と贈与

 
・突然ですけれども「スキル」という言葉がいつまでも苦手だ。技、という意味での「技術」と言ったならば、それは「あったりなかったりだけれど、あったら儲けもの」くらいの何かだけれども、一方「スキル」という言葉を使った途端に、それは「一定全員ある前提で/各々スコアとして測られたりしそうなもの」的な印象を受けたりするような気がしないでもない(私見です)。そんなわけで自分としては、何人かで集まって話をしているような状況で、話題が各種「スキル」的なものの方に流れるようなことになると思わず「う、う、うどんでも食べに行かない?」とか言いたくなったりもするのですが、そのこととは特に関係がなく、そのような背景も含めて、自分が「スキル」という、面白きこともなき外来語に、少しでもユーモアを与えるべく、勝手に作り出した言葉が「プレゼント・スキル」だ。


・そして突然ですけれども「人に贈り物をすること」が非常に好きだ。好きというか、もう「贈り物」こそが私の趣味なのです、とか言うと、それは、かなり、なんとなく、アーベインなかんじの、特技は「レディ・ファースト」の、素足にローファーを履いているような人(同時に肩からサマー・セーターを巻いているような人)をイメージさせ兼ねないけれども、そういったことではなく、ここで考えたい「贈り物」とは、もう少し「本人そっちのけ」の、ときに「表現」としての、あるいは「アクティヴィティ」としての、つまり「一般的な価値からするとかなりどうでもいい事柄」としての「贈り物」であって、そこで重要になってくることこそは、その「贈り物」を楽しむ方法としての「プレゼント・スキル」なのです。


・自分が勝手に考えている「贈り物」の大前提、つまり「プレゼント・スキル」が最も問われる点とは、人に物を贈る時に、「相手が自分でお金を払って買う可能性がある物」を贈ることは全く意味がない、ということです(だから「あ〜これ、欲しかったんだよね〜」というリアクションは、贈り物の成功を必ずしも意味しない)。そしてそれをより極端に、というか抽象的なレベルで考えるならば、「相手がその物をそれと認識して欲しいと思っている物」を贈ることには、意味がない、ということなのであって、つまりそのような基準の元に、それでも何かを彼(女)へ贈ろうとするのならば、一体私は何を贈るべきなのか、という地点で考えた事柄が、そのことこそが、ある種の創造性の原点なのだと思う。


・ごく普通に考えて、人がある「物」を自分の物として所有するためにはいくつかの方法があるはずで、例えば、最も一般的かと思われる方法として、貨幣と交換したならば「購入」があり、しかし他にも、物と物とを交換したならば「物々交換」、人の物を(強引に)自分の物にしたならば「強奪」、人の物をずるずると自分の物にしたならば「借りパク」、一見すると誰の物でもなさそうな物を(こっそり)自分の物にしたならば「拾得(?)」、などなど色々あると思うのだけれども、その中で「贈り物」とは、人が貨幣と交換する以外の方法で、ある「物」と出会う、数少ない可能性なのだと思う。


・そして私たちはその可能性を徹底的に遊び尽くすために「贈り物」をすることを止めない。あるときは、カジュアルなファッションの女性に「ディオールの真っ赤なルージュ」を贈り、またあるときは、全く日光のイメージがない男性に「ヴァカンス風味の水着」を、そして、スウェット上下で寝ちゃうような友達に「(何故か総馬柄の)パジャマ」を、事務所のヤング・リーダーには「パターゴルフセット」を、ていねいなくらし系女子に「スパンコールのベスト」を、あるいはごく最近では、友達の3歳になる息子に「登山用リュック」と「トラウマになるような絵本」(しかし意外と好評だったな)を、贈る。あるいは、タバコなんて全く吸わないけれども「嗜好品としての葉巻ってちょっといいよね〜」と(戯れに)呟いた僕には「葉巻入門セット」が贈られたのだから、そんな自分は絶対に、むせながらそれを(ブランデーを傾けながら)吸わなければならない。なぜならばそれが「贈り物」だからだ。


・「贈り物」は半ば暴力的に部屋の中に侵入して、全く勝手に自分の物であることを始める。自分が意識して、意図して、購入したあれやこれやが並んでいる部屋に対して、かしこまって言うならば「介入」、オシャレに言うならば「ハック」、普通に言うならば「ちょっかい」、として、何だかわからないうちに、気がつくと「そこにある」。プレゼントを贈ることが多くなるこの季節に(この時期誕生日の友達が多いのだ)、そのような日常的な、具体的な意味での「贈与」と、その先に恐らくはあるはずの「共有」という事柄について、考えてみたいなぁと思いつつも、夏なので若干、脳がおぼろ豆腐だ。