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  映像研究

記さなければ忘れてしまう

 
・忘れてしまうことが多すぎる。あまりにも沢山のことを忘れてしまうのだし、しかしそもそも覚えている/思い出すことができる、ということもどうなのだろうかと考えないこともない。どんなに自分にとって重要なトピックスだと思えるような事柄でさえ、出来事のまっただ中にいる時にはその出来事については考えられないのだし、かといってその出来事が過ぎ去ってしまえば、それはもう「(物を語るという意味での)物語り」になってしまう。


・「物語があまり得意ではないのです」と例えば今日、5月のある水曜日にランチとディナーの間の時間の某カレー店にて、それ自体はたわいない事柄として話すようなこともあったかもしれない。「物語が不得意」とは何か。そのことを表明することで、自分の何を、どのような指向性を、確認したかったのだろう?


・例えば人は自分のことについて他者に話すような時、どのように表現をするのか。どのような単語を選び、どのような人称で、どのような時制で、どのようなモードで、どのようなトーンで、話すか。生まれは東京です、いや生まれたのは、病院はということであれば岡山で、岡山というのは母の実家があるからなのですけど、生まれてからしばらくは岡山にいて、もちろんそれは後から聞いたことで、でも基本的には、出身は東京です。東京の真ん中の上の、北の方の、清瀬という場所があって、その辺りで育ちました、何度か近くで引っ越しているから、その辺りというような…、


・そして誰もが、土地と、血縁について、家族について、話をする。それは「物語り」で、その物語りに並行するように、または交差するように、話し手の、あるいは聞き手の、社会的な価値判断が流れ込んでは、人称や、時制や、モードや、トーンに、エフェクトをかけるかもしれない。それはきっと話すということが、どうしてもそのような行為なのだとして。


・そのことと少し違う事柄として/あるいはもちろん接点を持つような事柄として、基本的には人は自分の現在の地点を肯定するために(新しい)論理のようなものを展開するのだろうから、自分の過去は「現在のための」ある関係を持った、ことによっては「有益な」出来事として、位置づけられるのだろうか。「あのことがあったから今があるのです」と人は言う。そこで「でもそんなこと言ったら大抵のことそうだよ」と返答したならば、それは野暮ということになってしまうかもしれない。


・ある価値判断を示すことが、暴力のように、という表現は適切かどうかわからなくて、正しくは、強い反発を覚えるようなことがある。とても素朴に考えて、価値を相対化することは、そのような強い反発を覚えるような価値判断に対して、それを正そうとするような、ある姿勢であるはずだった。


・あまりにも限定された状況しか知ることが出来ない。あるいはそれが「知ること」の限界だか、あるいはそれが「知ること」そのものであるのだとして、そのようにしか思考のきっかけは与えられないのだと思う。強い反発を覚えるような価値判断がなされることが、あるかもしれないし、ないかもしれない。(他者の痛みを)想像することはできるかもしれない、ということに少しだけ希望を持ちつつも、しかし、むしろ、その痛みを想像することとは別のところで、コミュニケーションをはかることも可能なのではないか?これは何の物語りだったのか。


・「家族について」という話題を家族と話す、というそんなメタトークは基本的にはないに越したことはないと思う。でもそれがなされるときに、自分は例えば自分が「家族について」どのような基準を持っているかということが(少なからず先行する家族ー親ということですねーから影響を受けている/影響を受けているとかいうものでもなく/そのように「生きてきた」/ということを考慮して)わかるように思うのならば、それは同時に、なぜ自分が「物語」に対して、このような基準を持っているのか、ということについて理解するきっかけになるかもしれない。


・「あらゆる関係は『任意』のものである」という発想を自分が確かに持っている(物語的な表現であれば「刻み込まれている」)ということが、このような経路で理解できたかもしれない。「他であったかもしれないが/偶然にも今はこのような状況であり/それ自体『良い/悪い』という判断を下せるようなことではなく/しかしだからこそ今のこの状況を受け入れた上で/可能であればそれを面白いことだと思うようなアイディアを全力で沸き上がらせながら/とりあえず色々試してみる/(ことを続ける)」という方針で今までも(たぶん)やってきたし、これからもやっていくしかない。そしてその、この自体あくまでも任意であるような、自分にとっての論理を、文節ごとに区切ってみて、状況に応じてその部分を微調整しながら、生き物のように、生き長らえるように、展開させようとするだろう。「考えること」にできることは、たぶんこのあたりだと思う。


・もちろん全く別の気持ちもある。「感情」と呼んだりしそうな何かもある。だけれどもそれはまた別の事柄で(ひとつの事柄でもある)だからクリアーにカットしようとするだろう。「物語」についてだった。