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  映像研究

真夏のディナーと、おしまいの断片of、サマー

 
・しかし暑い、そしてぬるい。まるで、体温と同じ温度の水中だ、というのが職場の総意です。こんな日のディナーは全く頭を使わずにスーパーで購入した物たちを並べ、まずは冷やしトマト、そして冷や奴には山形名産の、だし(本当に大好物/本当に美味しい)をかけ、その他刺身、キムチ、納豆、など。そしてもちろんビール。ちなみに、そういえば去年のこの季節もあまり備忘録していなかったことを思い出し、そしてそれは仕事という名の暴力的なスケジュールが原因だと思っていたのだけれども、今わかったことは、そうではなく、暑いと、文字が頭に浮かばない、ということなのであって、この季節はきっとインターネットも若干乗車率低めのなのではないかと考える。そんな今、まさに、サマー真っ盛り。


・そんなサマーと特に関係なく、ふと思い出した、おしまいの断片、という言葉は、確かレイモンド的なカーヴァーのような人の、詩だか散文だかわからない、ちょっと短めの、何らかのテキストで、それを読んで高校生の頃に、修学旅行の感想文集に(一応それのアレをアレして)「はじまりの断片」というタイトルで、修学とも旅行とも関係のない、詩だか散文だかわからない、何らかのテキストを書いたのは、実に痛々しい、とても個人的な記憶だ。


・そうしてつまり、夏なのに、あるいは夏だからこそ、いろいろな事柄の「おしまい」に日々翻弄されているような気がする今日この頃。時々行って、ちょっと良いビールを飲むのが楽しみだった荻窪の某カフェは確かこの夏で閉店するのだし、ある種のホーム・タウンであるところの国分寺のジャズ喫茶?ロック喫茶?も8月半ばで40年だかの営業を終えるとのこと。そのように、それらはあまりにも突然のおしまいを向かえるのだけど(少なくとも自分にはそう思われるのだけれども)、考えてみれば、おしまいとはいつもそのように突然なはずだ。


・そして数日前に知った、例の「青山ブックセンター」の事については、それはおしまいではないのかもしれないけれども、いずれにしても、そこにはなかなか厳しい現代の状況が現れているのだと思う。数年前、何の前触れもなく新宿ルミネのABCが閉店したときは、あまりにも悲しすぎてバスルームでひとり、涙を流したほどだ(何よりも、ある「場」が失われることに弱いのだ)ったけれども、今回はもう少しドライな感情で、うーん、なかなか厳しいのだろうなぁ、とか思う。ちなみに完全に全く余計な思いつきだけれども、もしも仮に、報道されている通りに「某大型古書チェーン店」がABCを買収?した場合、例えばABCの店内では清水国明的な人の「いや〜なんで青山ブックセンターってこんなに人気があるんでしょうね〜」とかいう種類の放送が流れるのかな、とかなんとか想像して、ちょっと面白くなってしまう程度の不謹慎さは持ち合わせているのでした。



・そして、そのような夏の終りに、自分は自分で、ある種の「おしまい」としての、引っ越しを考えている。思えば「なんとなく、リベラル」な杉並区に移り住んで、かれこれ3年。今の住居を離れることで、日課的にささま書店をディグれなくなることはちょっと悲しいけれども、あるいは中央図書館の中庭的な空間でぼやっとすることができなくなるのも切ないけれども、そうやっておしまいがあることは、それはそれで(引っ越しに関しては)悪いことではないと思う。


・そして、東京ガスに解約の連絡をしたおりに(新居は都市ガスではなくプロパンガスなので)「これまで東京ガスをありがとうございました!」とかいう風に挨拶をされたならば、今までは何とも思ってなかったけれども、ガスすらも、なんか名残惜しい、別れがたいもののように思えてきて、それはそれで困った(いや、しかしそれはきっと思い違いだ)。そのように、それらがつまり、ごく個人的な、2008年のセンチメンタルな、日本の夏なのです。