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  映像研究

春は風邪をひく、色々と乱読する、前後脈絡なく、読む。

 
・おそらくは昨日か今日かに発売されたと思われる「美術手帖」5月号を駅前の書店にて買い求め、近くの喫茶店にて読む。会田誠を中心にchim↑pom、そして遠藤一郎というアーティスト、加藤愛というアーティストによる表紙も面白いけれども、何よりも個人的には今回の特集の中の記事、武盾一郎いちむらみさこ、富永剛総、増山麗奈小川てつオというアーティスト(という呼称が相応しいのかどうなのかはわかりません/ということ自体が重要な項目であることにも興味を持ちます)やイルコモンズという元・現代美術作家などによる「青空雑談会」は美術というフォーマット発、美術というフォーマット&それ以外の何事かに向けられた、今とても意義ある雑談会だと思い、よく読む。


・ここでは「日常を題材にした美術」といったようなものではなく、生活それ自体が表現であるような何かについて話されていると思う。ヒントは色々とある。色々なところにある。2008年の現在、色々な人たちの色々な活動の功績(?)によって、ある「表現」が同時に「抵抗」でもあるような回路みたいなものが一般的にも認識されつつあるように思う(しかしそれは局所的な「一般的」であるかもしれない)。そのことはことさら持ち上げる必要もないだろうけれども、ことさら批判する必要もないだろうと思う。いずれにしても、それを何だかのかたちで(上げられようが下げられようが)継続していくことこそを考えるべきだと思う。



・一方その頃南米エクアドルでは……なくて、南米という名の「アブヤヤラ大陸」では、また別の、世界の様々な不平等についての意見交換がなされているという、しかしこれは数日前にフライング的にゲットした「子どもと昔話」に連載されている、小沢健二の『うさぎ!』の中の一場面。


・ちなみに今回の第十一話で書かれている様々な事柄の中でも特に「現代の経済、社会への対抗運動のスローガン『Another World is Possible』を日本語で訳するときに『もうひとつの世界は可能だ』とするのは相応しくないのではないか」というようなくだりに反応してしまったのは、まさに今足下にある(図書館から借りてきた)スーザン・ジョージ著『オルター・グローバリゼーション宣言―もうひとつの世界は可能だ!もし…』を読んだり読まなかったりしていたからなのだけれども、それを「もうひとつの世界」と訳することの是非はともかく、あるいは「可能だ!」かどうかもこの際ひとまず置いておいて(それももちろん考えるべきですけれども)、今考えるのは「もし…」というその条件の、恐らくは書かれていないはじめのひとつに関して。



・このところ、読んだ本、見たウェブの記事、などなどから「運動」と「運動に対する批評(批判)」の関係について考えて困ってしまう(というか「考えなければいけない」ような気持ちになって困ってしまうのは「両方の意見を聞いて受け入れましょう」というようなことを意識しすぎた結果、例えば森達也という人に言ったらお説教をいただけそうな思考「中立的な何か」のようなものになってしまっているということなのでしょうか?)のだけれども、ちなみにそんな自分の手元に今あるのは『NAM―原理』と『unfinishedアンフィニッシュド』という本で、これはそれぞれ、柄谷行人という人を中心とした運動である「NAM」と、坂本龍一という人を中心とした運動「code」について書かれた、あるいはそれ自体が運動の一部であるようなもので、自分としてはその運動の内容については(単純にわからない部分も多いですので)書けないけれども、いずれにしてもどちらの運動も2000年前後に始まったもので、現在はその名称では主立った活動はしていない(と思う)。


・そして多分そういった運動の末路(?)に対して批判的な「総括のようなこと」をするのは簡単、では全然ないだろうけれど、時折そういった内容の論考(主に「NAM」について)を目にすることを考えると、少なくともそういうことを言いたい/書きたい人は少なからずいるのかもしれないなと思う。あるいはまた直接に批判的な内容ではないけれども、例えば去年の年末に読んだ『ihr HertZ(イァハーツ) 2018年 01 月号 [雑誌]』に掲載されていた、石鍋仁美という人の論考『エコ考古学2007』*1では、現代の各種環境系運動からカウンター・カルチャー(ソフトからハードまで)がすべてマトリクスにのせられて(「世界/自分」「刺激/癒し」「洗練/土着」というような座標によって)分析された結果(読んだ印象としては)それらをもはや「失敗するであろう」運動として(だからこそ『考古学』として)位置づけている、というような考察もあったことを思い出し、特にそういったものに注目してしまう。



・「もうひとつの世界は可能だ!…もし」の後に、まずはじめに「そもそも『もうひとつの世界』が必要だと思うのならば。」を置いてみたならば、そこで「『もうひとつの世界』なんて必要ではない」という発想に至る人がいる、のは当然であるけれども、自分としては更に一歩進んで「『もうひとつの世界』なんて見たくも聞きたくもない」というようなテンションの人がいるであろうことを想像してみる。そして自分としては「運動する人」と同じくらい「運動に対して批判的である人」に対して興味があるならば、一体その人はどういったことを考えているのか、あるいはそういえば「運動する人」と「運動に対して批判的である人」の割合みたいなもの(そんなざっくりとした区分はできないのでしょうかれど/あるいは一人の人の中にその両者を探すこともまた有益であるようにも思う)はどんなようなかんじになっているのだろうかとも考える。


・メッセージを発することと発し続けること。そのために目的と手段について考え、歴史を学び、またそこから別の、ヴァージョン・アップされたアイディアを発想すること。そういったことと平行して考え続けるべきだと思うことは、そもそも「表現≒抵抗」であるような前提をその時々でどれだけの人と共有できるかということであって、そして(仮にそれが必要であるとして)もしもその「共有する」ことを困難にしている何だかの事柄があるのだとしたら、それは一体どこから、どういう意図を持ってやって来た事柄なのか、というようなことだ。そのようなことを、風邪をひきつつ、乱読の中で、考えたりもする。
 

*1:ちなみに山本直樹の『レッド』/連合赤軍をモチーフとしたマンガ、についての記述から始まり「…(略)戦後日本の二大カウンタームーブメントは二度、大衆から置き去りにされることになる。」で締められるこの論考は「日本経済新聞編集委員論説委員」であるところの「トレンド記者」によって書かれているみたいです