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  映像研究

記録

 
Eテレ『SWITCHインタビュー』という番組で松岡正剛という人とコムアイという人が話しているのを見る。テレビでのトークなのだからお互いや何か別の大きなものに対してのある程度のサーヴィスになるのは仕方ないとしても、それを差し引いてもふたりの選ぶ言葉や話す感じに学ぶべきことがあるように思えた。学ぶべき「選ぶ言葉」や、学ぶべき「話す感じ」がテレビのような場所に、普通に、カジュアルに、存在するということ。あるいはむしろ意外に思うようなところ、「こんなところに本当に考えるべきことはないだろう」と思ってしまう、J-POPの中心のようなところに存在するということ。そういう中心と周縁?というか、中心に見えているものに対して、別のレイヤーに見るべき/考えるべきことを探すようなことはエキサイティングである。最近何人かの人に「いまの水曜日のカンパネラというチーム及びコムアイという人に『LIFE』期の小沢健二を見ている」と言っているのだけれども、今のところ特に賛同は得られていない。賛同は別に重要ではないにしろ、自分としてはそこにひとつ、考えるべきことがある。自由研究の題材がある。


・「生き生きしていること」や「新しさ」のようなことが、どうすれば「良いこと」と結びつくのか?言い換えれば「快楽」と「倫理」のあいだにどうすれば通路を作れるのか?あるいはもう少し具体的なテーマとして「私たちのこの世界/生活はどういう原理で成り立っているのか」「私たちのこの世界/生活の別のあり方はどこか別の場所に/過去や未来にあり得るのだろうか」という問いを立ててみて、さらにその問いを探る方法自体の「発明」を試みること。なおかつそれを誰にでもわかるような表現で、誰もが振り返ってしまうような鮮やかなパフォーマンスで、どうしたら表現することができるのだろうか?「ああ楽しかった」と笑いながら家に帰って、次の日に一人で電車に乗っている時にスマホをつるつるする指をふと止めて「あれは何か大事なことだったんじゃないか」と思い出すような出来事をどうすれば生成させることができるのか?それは表現と教育が重ね合わされるような領域でもある。どうすれば「学び」が「快楽」に、「快楽」が「学び」になるのか?なり得るのか?某美術大学のキャッチコピー「つくるをいきる・いきるをつくる」は真剣に実演されてよい。それはあまりにもロマンティックな前提を元にした自由研究なのかもしれない。ひとまずそれは2017年の自分の自由研究とする。