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  映像研究

その人の筆跡はその人の歌い方となんとなく通ずるところがあるのでは

 
・雪だ。大雪だ。降っても降っても的な様相だ。しかも寒い、ということで出かけなければいけないのにホクホクと読書、ああそうだ、と思いついて先週の備忘録、忘してしまう前に録る。


・31日(木)の業務後は飯田橋へ移動して妹が制作したというドキュメンタリーの上映会へ。ホームレスの生活を題材としたその作品は、極めて素直な視点でつくられていて(贔屓目抜きで)好感触だ。更にもう一本の、やはりこちらも元ホームレスの人たちを支援するNPO法人のコーヒー焙煎のプロジェクトを追いかけたドキュメンタリー、の方は普通に(という書き方はやや前者に失礼だ/けれども他意はないのです)とても良かった。そんなわけで今「普通の記録」に夢中な自分は、あるいは「普通の記録のようなドキュメンタリー」にはもはや頭があがりません。そして上映後は駆けつけていた母と母友達と晩酌in神楽坂の居酒屋。20代の子を持つすべての父と母にとって「婚期にまつわるエトセトラ」以上にエキサイティングな話題はないのだろうと思う。ドキュメントのし甲斐もあるしなあ。


・1日(金)の業務後はTくんから連絡があり、今年初の山部・部会inそこらへんの適当な居酒屋。2008年最初の山登り、あるいは山部・外伝としての「バック・カントリー・スキー」についての具体的かつ現実的なプランについて5分程度で意見をまとめたならば、その後は主にハナ金的な宴に。「最近なにか面白いものはないのか」というWちゃんの問いに「「3月にやる「『三月の5日間』という演目で有名になった<チェルフィッチュ>という演劇ユニット?みたいなものの新作」は面白そうだ」とか「テレビジョンを観るくらいなら『現代詩手帖』を読む今」というようなことを述べたならば、「そういう『サブカル・ヴィレッジ』的な何者かに対してはどうにも寛容になれません」というような返答をもらう。それに対して「『山登り』と『現代的な詩』の間には何か関係があるのではないか」とか、あまつさえ「ある人の筆跡はある人の歌い方となんとなく通ずるところがあるのではないか」というような再・返答をしたところで、それはただハナ金に飲み込まれるべきトピックスの一例に他ならない。しかしながら「『英語』を勉強したい」という自分に「スティーブ・ジョブズのスピーチの英文」をくれたことに感謝したい。


・2日(土)の業務後は業務時間には終われなかった、来週からのスケジューリングを適度にアレするのを兼ねて夕食in駅前の適当なアジアン居酒屋。シフトの調整を2分で済ませたならば、その後は週末の夜的な何かだ。同僚ガールからの「男性には外見と関係のない<生きる姿勢>としての『ボウボウ』と『ツルツル』の2種類がいるような気がします」「そしてその両者は究極的には決して理解し合うことはできないでしょう」「そして女性の多くは『ボウボウ』を求めているので、そのマッチングについては『解決する』という種類の問題ではないのです」という恐ろしい自由研究の発表。そして例えば『ボウボウ』を『肉食動物』と、『ツルツル』を『草食動物』と置き換えたならば、自分はそこで間違いなく「シマウマ」のようなもので、しかし「シマウマ」としては決して『肉食動物』に対して、それを積極的に遠ざけるというつもりもなく、むしろこちらから『虎』のようなものに近づいて行くならば、「あのー、ぼくも縞っちゃ縞なんですねどね。なんならちょっと似てたり的な?」とか話しかけるけれども、『虎』にしてみれば『シマウマ』は「食べるもの」でしかないので、しゃべり終わる前に噛み付かれるだろう、というような話をしていた。


・そしてこのような俗にいう「居酒屋トーク」なるものが、アルコールその他の力も借りて「日常のぼやっとした考えるかたちのないことに輪郭を与える作業」であるのならば、それと同じことは、あるナイーヴな男性にとっては「詩」がそれであって、そしてまた別の、悩めるうら若き女性にとっては「スピリチュアル」であるのかもしれない。あるいは「旅行」かもしれない。あるいは「美術」かも「山登り」かもしれないのであって、この場合「・・・でない」とはまったく言えないし言う必要がない。