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  映像研究

たとえば抱負とかではない

 
・もう新しい年も8日ともなれば、すっかり日常だ、けれどもこの先わりと、なにか、好ましい予感はしている、そんな中、思い起こせば去年、そのはじめに「今年の目標は『目標を立てること』だ」などと言っていたのがまるで昨日のことのように思い出されるわけですが、あるいはそれは、果たされたのか、果たされなかったのか、そもそもそれはどうだっていいことなのか、何一つまったくわからないけれども、わからないなりに、今読んでいる本の、今読んでいるちょっと前の箇所から、今思うことに「ぴったりくる」(というような言い方は相応しくないのか/アイロニストとしては/なんだそれは?)部分の言葉を記録しておこうと思います。記録はなにより大切だと思います。


会話のなかにメタファーを混ぜるということは、突然会話をやめて顔をしかめることや、ポケットから写真を取りだしてみせること、話し相手の顔を平手打ちすることや、相手にキスをすることに似ている。テキストのなかにメタファーを混ぜることは、イタリックや、イラストや、代わった句読点や体裁(フォーマット)を使用することに似ているのだ。
こうしたことすべては、話し相手や読者に影響を与える方法であって、あるメッセージを伝える方法ではない。こういうことに対して、「いったいあなたは何をいいたいのですか」と応じたら、それは適切ではないのだ。もし何かをいいたかったのならーもし意味のある文を発話したかったのならー人はたぶん、そうしていただろう。しかしながらそうしないで、その人は別の手段による方が、彼の目的をもっとうまく達成できると考えたのである。


リチャード・ローティ偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』 より