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  映像研究

遠足へと

 
・春の遠足。LDの3人で水戸芸術館へ。
当初はぼくが車を出す予定だったものの、色んなもろもろで急遽列車の旅に変更してもらいました。
でも、やっぱり電車は電車で良いですね。昔18きっぷの余りで意味もなく遠出したこととか思い出します。


・それで、企画展「夏への扉マイクロポップの時代」は今年はじめから気になってた展覧会だったのですが、もちろん個々の作品はそれぞれ興味深かったのですが、そしてそれで充分だということでもあるんですが、なんとなく「マイクロポップ」と「夏への扉」というコンセプトと、そこに添えられた展覧会趣旨に対してはちょっと微妙なかんじがしてしまって、なんというかこれは、展覧会の趣旨がはっきりしてるときほど、こういうことを考えてしまうというようなことなんだけど、「作者はもっと(よい意味で)ずうずうしかったり、適当だったり、だからこそしたたかだったりするんじゃないかなぁ」みたいなことを考える。
マイクロポップ宣言」は、個人的にはどうしても「ロストジェネレーション」みたいな言い方(コンセプト?)と無関係には考えられないし、だからこそ「慮っていただいてありがとうございます」と観客なのにそんなことを思う反面、そこからなにか、新しい体験みたいなものを探すのは難しかった、というのが正直なところだったりする。


・「とるにたらない」「つつましいが力強い主張」「小さなずらしやささやかな行為」とされているような視線、と表現があるとして、そのメッセージの対象は、例えば村上隆の「アメリカ」や椹木野衣の「日本(現代)美術」のような、具体的なものとしてありえるのか、ありえるとしたらどういうものなのか。あるいはそのメッセージというものも「つつましいが…」みたいなことなのだろうか…? というようなこともちょっと考えてみたいなと思う。美術手帖で、椹木野衣×松井みどりで、対談をしていたのでそういうものも読みながら。展覧会のパンフ『マイクロポップの時代:夏への扉』も読みながら。。


・あ、作品としては、森千裕、泉太郎、という流れがスリリングで面白かったです。