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  映像研究

お気に召すまま/勝手にしやがれ

 
・「子どもと昔話」の小沢健二うさぎ!」第七話までを読んで考えたこと、をきわめて断片的に。


・第七話ではこれまで言及してきた内容をおさらいするように、「広告と消費の関係」が語られたりしながら、エピソードのレベルでも、そしてなぜ「うさぎ!」がこの方法で書かれなければいけないか、というようなレベルでも、かなり大きな展開をしている。特に後者の「うさぎ!」がどういうスタンスで書かれているのか、を書いている(と思う)以下のような内容には、少なからずあるのだろう、この連載に対する反応がフィードバックされてるのでは? というようなこともついつい考えてしまう。

「何も物を考えていない。『左傾化』じゃない。どこまでいわゆる『貧しい』人たちを見下せば気が済むんだよ」とクィル。「『左翼』とか『右翼』ってのは、たかだか二百年かそこらに、野蛮な小大陸のフランス国で生まれた言葉だ。」

僕らの考え方は『社会主義』とか『マルクス』とか、そういう白人特有の文化には根づいていない。


本編を読んだ人ならば、この部分だけを引用することが(意味を強調するために)かなり雑だと思うかもしれないけど、それはさておき少なくともこういう具体的な言葉で(それは消去法ではあるのだけど)小沢健二自身が、いわゆるイデオロギーに対する自分のスタンスを表明していると思われる表現というのはめずらしい。というよりもほとんどこれは初めてのことではないかと考えて、こういうことからもあらためて「うさぎ!」というプロジェクト(こんな言い方は安っぽいかもしれないけれど、あえて)が、本気で、受け取る側にとって、具体的に機能させるための言葉として、書かれているのだなぁということを考える。
そして同時にそれは、しかし、というか、やはり、というかわからないけど、決して「これを選びなさい」というようなメッセージの方法をとらない。そのことについてはまた「うさぎ!」の中での、こんな言葉からも考えることができる。

きららは、他の人に、裸足で歩くようにすすめたりしませんでした。なぜかというと、まず、どんなことだって、その人が、自分でやろうと思ってやらなければ、意味がないのでした。(「うさぎ!」第二話より)


このようなメッセージの方法は、あるいは「ナイーヴすぎる」のかもしれない。少なくとも、単純に「伝わる効率」を考えれば、それは回りくどいということでしかない。しかしこれは「うさぎ!」にとっては当然のことであるようにも思う。
なぜならそこには、語られる内容の政治的なメッセージとは別のレベルで「表現すること」というものを「広告の言葉」や「プレゼンテーションの言葉」というようなものから救い出すような目的が示されていると、そう感じるからだ。(正確に言えば、「別のレベル」というだけでなく、「メッセージの方法」というものが、現代の社会のあり方をどのように規定しているか、ということを含めてなんだけど)


・このように考えてみると「次々に音楽のスタイルを変え」て、「とうとう音楽ですらなくなってしまった」とか言われてしまうような表現にも、ある一貫した<姿勢=メッセージ>を感じることができる。

(略)そのまったくくだらないナイフは、混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。そして切りとられた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。「優雅さー一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。カレーが、ゆでたニンジンと、いためたタマネギと、ご飯と、といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。


この文章は「うさぎ!」からの引用ではない。小沢健二がちょうど10年前に、雑誌「OLIVE」に連載していた「DOOWUTCHYALIKE」の最終回『無色の混沌』からの一文である。(この連載は当時からファンに限らず評判が良かった、と思う。またこの最終回では前バンドのエピソードなども普通に書かれていることから一部で話題になっていた?ような気もする。)しかしここには明らかに「うさぎ!」までつながっている、「メッセージすることに対する緊張感」や、「『表現』が『広告的なもの』になりきってしまわないメッセージの方法」が、あるべきものとして語られていると、そう思える。


・ちなみにこの「カレーの例え」は、「うさぎ」第七話では、別の例えとして引用(?)されていて、「面白い言い回しだなぁ」と思うと同時に、もしかしたら、これは意識的に「10年前のあの頃(「DOOWUTCHYALIKE」の)」と、「『うさぎ!』の現在」とのつながりを示そうとしてるのでは・・・、なんてことも考えずにはいられない。まぁただ単にお気に入りの例えだっていうだけかもしれませんが。
いずれにせよ、今回までを読んでいてそのようなことを考えました。